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第107話

「…ごめんな、あの時…怖かったろ。ずっと、謝りたかった。」 サラサラと水樹の髪を愛でるように頭を撫でた誠司は、苦々しく眉根を寄せていた。 とても心地いい。 ずっと触っていて欲しい。 そう思うのはやはり、誠司が運命の番だからなのかもしれない。 しかしそこに浮かぶ、水無瀬の顔。冷たい手。 水樹は誠司の手をそっと外した。 「龍樹が死ぬんじゃないかって…怖かったよ。」 そう、あの時。 初めての発情で誠司に犯されたあの日。誠司を止めようとした龍樹をこれでもかというほど殴り蹴った誠司。頭からかなりの出血をしていた龍樹が死ぬんじゃないかと、只々それが怖かった。 いくら発情期とはいえまだ幼かった水樹の身体が誠司を受け入れるにはかなりの痛みが伴ったものの、噛まれたその瞬間に感じたのは、今思えば間違いなく歓喜だった。 犯されたこと、噛まれたことは、水樹にとってもはやどうでも良かった。 誠司は水樹の言葉を正しく理解したようだった。昔もそうだった。舌足らずな幼児の言葉も、誠司は何故か正しく理解した。 「なぁ水樹、お前今幸せか?」 そう問うた誠司の声は、この何もない世界中に響いた。それは水樹の耳から入り身体中を反芻していく。 水樹はすぐに答えを出せなかった。 「あいつと番になって、本当に幸せか?」 畳み掛けるように誠司は問う。水樹はまだ答えない。答えられない。水樹自身、幸せなのか、幸せがなんなのかすらわかっていなかった。 けれど、水樹には言いたいことがあった。 「ねぇ、どうして連れて行ってくれなかったの?」 誠司が瞠目したのが、雰囲気でわかった。 「あの時、叔父さんなら俺を無理矢理にでも車に乗せられたよね。一緒に死ぬこともできたよね。俺を幸せにできるのは叔父さんしかいないって言ったのに、どうして一人で死んだの?」 ずっと、疑問だった。 周りがなんと言おうと、誠司が誘ったら水樹は車に乗っただろう。車に乗ってしまえば、誠司の運転でどうにでもなる。 「あんな遺書まで遺すなら、どうして一緒に連れて行ってくれなかったの?あんなこと言ったのに、どうして今更幸せかなんて聞くの?」 あの世で一緒になろうとまで言って、そうまでして水樹の幸せは誠司が与えるものと刷り込んだのに、何故連れて行ってくれなかったのか。 誠司の呪縛は未だ続いている。 長年続く呪いだけを遺して、何故逝ったのか。 誠司は、静かに口を開いた。 「俺が幸せにしてやりたかった。それが出来なくなった。どうあっても無理だった。だからお前を番契約から解放するために死んだ。死の先に幸せがあるとは思えなかったから…連れて行かなかった。もし、もしもお前が追ってきてくれたなら、その時こそお前を幸せにするって誓ってな。」 次第に震える声は、誠司の苦しみだ。死してなお、誠司も苦しみ続けている。 「車を走らせながら…αの性を呪ったよ。人でありながら、理性を保てない獣に成り下がるα性をな。」 そして森に入り、崖から突っ込んで海に沈んだ。

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