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第110話
「遂に後ろから刺されたかと思ったよ。」
朗らかに笑う水無瀬は、夏祭りでの出来事が嘘のようだ。
脇目も振らず抱き付いて、人目も憚らずキスしたりして。勢いって怖いと思いながら、水樹は空のグラスの中の氷を見つめた。
残暑が厳しくじっとりとまとわりつく湿気が気持ち悪いのか、今日はヘアバンドで前髪を上げてデコまで全開の水無瀬はくつくつと笑いながら面白そうに見てくる。居心地悪くて視線を泳がせていると、それもまた面白いらしく笑われてしまった。
一頻り笑った水無瀬がヘアバンドを外すと、キラリと金色の光が飛んだ。まるで光を纏う妖精のようなその光景に、水樹がほうっと見惚れていると、その甘い声に刃物を隠して水無瀬が口を開いた。
「もう、会いにこないと思ってたのに。」
どこか諦めたような、それでいて嬉しそうなその言葉の真意は、水樹にはまだわからない。水無瀬の言葉は回りくどくて、隠された意味を探すのはなかなか難しい。
水樹は意を決して、口を開いた。
「龍樹は確かに、いろんなものを持ってる。だから、水無瀬の言い分もわかる。」
美しい顔が表情を失う。絵画のような、作られたもののようなその美貌を真っ直ぐに見つめた。
恐怖はない。
「でも、龍樹が持ってないものを、水無瀬は持ってる。叔父さんが逆立ちしたって出来ないことを、水無瀬は出来る。」
人間味を失った美貌が再び表情を取り戻した。怪訝な顔をして首を傾げた水無瀬の膝に乗り上げて頬を両手で包むと、水無瀬の顔がほんの僅かに恐怖に歪んだ。それを複雑な思いで見て、そっと触れるだけのキスをする。
驚愕に見開かれた瞳が何度か瞬いて、長い睫毛が瞼をくすぐった。
唇を離し目を開けると、やはり水無瀬がきょとんとした顔をしていて、珍しいその顔に微笑ましささえ感じる。
「…何があっても隣にいる番。愛してくれる番を、水無瀬は持ってる。俺を側に置いて独占することが、水無瀬には出来るんだよ。」
龍樹がまだ持たない、この先現れるかもわからない、身も心も自分に捧げてくれる番を水無瀬は持っている。
既に亡い誠司には出来ない、番を側に置いて独占しておくことが、水無瀬には出来る。
そして水樹自身、水無瀬の番として水無瀬に独占されることを望んでいるのだ。
形の良い頭を抱き込み、優しく力を込める。すっぽりと腕の中に収まる小さな頭。
「ずっと側にいてよ。ずっと愛してあげるから。」
こんなに傷付けられても側にいたいのだから、嫌いになんてきっと一生なれないだろう。なら、とことん水無瀬を愛したい。
「水無瀬が側にいるっていう幸せが一つあれば、他のどんな不幸があっても俺は構わないから。」
青い瞳に自分の顔が映っているのを見ながら、どちらからともなく吸い寄せられるようにキスをした。
「…なにそれ、君って本当…わけわかんないよ。」
そう言った水無瀬の目尻に、輝く粒を見た気がした。
誠司がかけた呪縛が、するりと解ける。代わりに、漸く自由になった水樹の手を、水無瀬の冷たい指先がそっと握った。
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