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第142話

美しい微笑みを崩さないまま、水無瀬の視線だけが下に落ちる。 水樹の抱擁から抜け出して、白い指先をもっと白い首に這わせた。今はすっかり綺麗になったそこに、手指の痕がついていたのだ。 「…初めてだったんだ。」 小さな小さな声は、この距離でさえ聞き逃してしまいそう。 聞いて欲しくないのかもしれない。水無瀬は弱いところを見せたがらないから。弱いところを見せたくないけれど、一人では抱えきれなくて、苦しんでいる。 「あなたがいなければこの人は死ぬほど追い込まれたりしなかった、産まなければよかった、て、お母さんが…」 何も感じさせない冷たく美しい声が、痛くて、苦しくて、水樹の頬を涙が伝う。なんで俺が泣いてるんだと思う間も無く、次から次へと涙が伝う。 微笑む水無瀬が、その涙を拭ってくれる。 逆だろ、泣いてるのはお前だろ、と、声にはならなかった。 「どんなに叩いても、どんなに蹴っても、お母さんが僕の存在を否定したことはなかった。似ているらしい顔も知らない本当の父親を罵倒する言葉は吐いても、僕を罵倒したことはなかったんだ。それで必ず言うんだ、愛してるのよ唯って…」 水樹を見ているようで見ていない。 どこか遠くを見ながら、水無瀬は続ける。まるで教科書を朗読するかのように、淡々とその時あったことを話し続ける。 痛みも苦しみも、麻痺しているかのように。 「あの日は愛してるって言ってくれなかった。僕の首を絞めながら産まなければよかったって叫んで、お坊さんに引き剥がされてそのまま病院。それから会ってない。」 物語は終わりだと言わんばかりに、再びこてんと肩に額を預けてくる。水無瀬は、少しも泣いていなかった。もはや、事が大き過ぎて泣けないのかもしれない。心が追いつかないのかもしれない。 水樹はグスッと鼻をすすって、水無瀬の柔らかい金髪に指を差し入れた。 「…高校を出たら、働かないと。生活費と、お母さんの治療費も要るし。」 あとお母さんのお酒もか、とちょっと戯けて呟いた水無瀬は、笑ってすらいた。 顔だけ、声だけで。 心は、泣いていた。 号泣、咽び泣き、慟哭、他にどんな表現があっただろうか。 「君と結婚して、遺産が転がり込んでくるまで待っていられなくなったんだ。…ありがとう、もう十分だ。」 大人しく頭を撫でられていた水無瀬は身体を起こし、水樹を正面から見つめた。 そして、微笑んだ。 ひどく満足そうな、あの微笑み。 水樹をもう必要ないと言ったあの時の微笑みだ。 「君は僕がいるだけでいいって、不幸でいいって言ってくれたけど…僕はやっぱり君に幸せになって欲しいから、僕とは離れたほうがいいと思う。お金が無いって、結構キツイよ。」 こんなにも水無瀬の微笑みに心を抉られる日が来るなんて、思いもしなかった。 それもきっと、抉られたのは水無瀬の心。痛い苦しいと水無瀬の心が叫ぶから、水樹の心が抉られるのだ。

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