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第143話
ぐ、と唇を噛んで俯いた。
鉄の味がする。
それとは別に、ちくりと刺すような胸の痛みに、薄い靄がかかっていた。それの正体は、考えなくてもわかる。
わかってほしい、わかってくれない。そのもどかしさへの悲鳴だ。
ぽんぽんと軽く背を叩いてくれた水無瀬はそっと身体を離し、水樹の顔を覗き込もうとした。
その瞬間。
バッと顔を上げた水樹の額と、水樹を覗き込もうとした水無瀬の鼻柱がガツンと凄まじい音を立ててぶつかった。
「…………いっ…………」
「ご、ごめん大丈夫!?え、ちょ、大丈夫!?」
当たり前だが鼻をぶつけた水無瀬と額をぶつけた水樹ではダメージが違う。もちろん水樹もそれなりに痛かったが、その場に崩れ落ちた水無瀬に声をかけずにはいられない。背を丸めて鼻を押さえたまま僅かに震えている。
慌てて震える背中をさすってやるが、気分が悪いわけでもないのに背中をさする意味は無い。
どうしようとあたふたしていると、水無瀬がゆらりと身体を起こした。
その表情は、笑顔だった。
赤くなった鼻を押さえて、恐らく痛みからくる生理的な涙をたっぷり溜めて、笑っていた。
「もう…台無しだよ、折角決めたのに。」
決めたって、何が。
まさか僕とは離れた方が云々が決め台詞だとでも言うのか。どこまでも勝手な奴め。
思いはしても口にはしない。水無瀬への文句はなぜかあまり表に出ない。文句を言う前に、その笑顔を見てどうでもよくなってしまう。
「…久しぶりに笑ったな。」
ほら、そうやって晴れやかに笑うから。その笑顔ひとつで、満たされてしまうから。
「どうして、そうやって勝手に決めるんだよ。」
水無瀬の瞳から涙が引いたのに、今度は水樹の瞳から涙が溢れそうになる。
笑顔ひとつでどんな勝手も許してしまうくらい愛しくて堪らないのに、どうして離れようとするのか。
水無瀬の存在無くして、水樹の幸せが成り立つとでも思っているのか。
どんなにお金があっても、どんなに仕事が順調でも、そこに水無瀬がいなければ意味はない。空っぽの幸せに、何の意味があるのか。
水樹は優しく水無瀬を抱きしめて、額にキスを落とした。
「…俺の幸せは、俺のものだ。俺の幸せの形は、俺が決める。」
ぎゅ、と形のいい頭を抱き込むと、ふわりと清涼感のある優しい香りがした。
石鹸の香り。
水無瀬はいつも、α特有の甘いフェロモンと石鹸の香りを纏わせている。
その一見相反しているすっきりとした甘い香りが、水樹の脳を揺さぶって、虜にするのだ。
もぞ、と身動ぎした水無瀬を少し自由にしてやると、一瞬で体勢が入れ替わる。
こうして抱きしめられて、鼻いっぱいにその香りを吸い込んむ度、ああやっぱり好きだなと思う。
本能的に求める香りではなく、水樹が自分の意思で求める香りが、これだ。
「知らないよ、もう…あとでやっぱりこんな生活出来ないって言わないでよ。」
「出来ないと思ったら抜け出せるように頑張ればいいんだよ。」
「簡単に言わないでよ…お坊ちゃんが…」
軽口と同時に聞こえてくる水無瀬の鼓動が心地いい。
そっと目を閉じると、大好きな香りと優しい音に包まれる。これなくして、水樹の幸福は成り立たないのだ。
「…君がいてくれて、良かった。」
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