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第144話
ふわふわした足取りで自室へ戻ってきて、なんとなく冷蔵庫を漁って、適当に手にしたジャガイモを剥いている。その全てが無意識だから恐ろしい。
頭の中にあるのは、別れ際の水無瀬の笑顔。長らく見ていなかった気がする、天使の微笑み。
とは言っても水無瀬が沈み込んでしまったのは桜が咲き始めた頃だったので、1ヶ月ぶりくらいだ。
長い、1ヶ月だった。
泊まっていけばいいのにと引き止める白い手の、なんと魅惑的なことか。やっとの思いでそれを断ったのは、あのまま抱かれて夜明けを迎えてしまうのが恐怖だったからだ。
過ぎる幸せへの恐怖。
瓦解した時に耐えられる自信がないから、こうしてちょっと物足りないくらいが丁度良い。
幸せであることに恐怖を感じるなんて、うら若き男子高校生としてどうなんだと思いつつ。
夕飯を適当に作るから、2時間くらいしたら来てと伝えると、ふんわりと微笑んで触れるだけのキスで返事をしてくれた。
「はー…」
なんとかなると勢いで水無瀬を説得したは良いものの、水樹は金銭に困ったことがない。
親の金で生きて、祖父の金で遊ぶ。
恵まれているとは思っていたが、水無瀬の家庭事情を知るとそのありがたみも増した。
結構な大きさのジャガイモを3個も剥いてしまい、メニューに困る。
また手を突っ込んで適当に漁ると、今度は人参が取れた。
これなら水無瀬の好きなカレーにしたいところだが、ルーもスパイスもない。
今夜は肉じゃがにしようと決めた。
剥き終えたジャガイモを水に晒して人参に包丁を入れたその時。
部屋中に、インターホンの音が鳴り響いた。それも、かなりの連打で。
水無瀬が来るには早過ぎる。
が、この連打の仕方は水無瀬以外に考えられない。人参だけ切って鍋に入れてから、と思ったが、あまりに鳴り響くインターホンが五月蝿くて。
「だー!もう!うるさい!」
中途半端に切られた人参と包丁をまな板に叩きつけ、大股で玄関に向かい、そして相手が誰かも確かめずに豪快に開け放った。
「みな…うわっ!」
ドアが開くなり飛び込んで来たのは、水無瀬ではなかった。
しかしよく知ったその匂い。フェロモン。
「…龍樹?」
そっと声をかけるも、反応はない。
ガチガチに硬くなった肩は不自然に上下して、この体勢なら確実に首に当たる筈の息はあまりに少ない。
龍樹は、誠司との一件から、頻繁に過呼吸状態に陥ることがあった。
数年経つと成長とともにその頻度は減っていき、中学に上がる頃には殆ど発作を起こさなくなったものの、時折息苦しそうにしているのは知っていた。
我を失うほどの発作は、いつ以来か。
「…龍樹、ゆっくり息吐いて。一緒に、ね?できるね?」
すー、はー。すー、はー。
ゆっくりゆっくり背を撫でながら手本のように深呼吸してみせると、少しずつ呼吸が落ち着いていく。
それに伴って身体から力が抜け、水樹もろともその場に座り込んだ。
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