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第157話

「じゃあ行ってくるね。授業が終わったらすぐ戻るから。」 「うん。…ねぇ、水無瀬。」 「ん?」 特進クラスの証である群青のリボンタイを結びながら、水無瀬は小首を傾げた。 水樹は少し、言い淀む。 「あの、さ。」 「うん。」 なあに、と微笑むその笑顔が、この願いで曇るのが火を見るより明らかだったから、とても言い出せなくて。 「やっぱり、いいや。行ってらっしゃい。」 と微笑み返したのだけど、結局水無瀬のその笑顔は溜息と共にすっと冷えてしまったのだった。 何故だか、水無瀬には水樹の考えていることがわかってしまっていたようで。 「もう…龍樹が気になるんでしょ?様子見てこい、じゃないの?いいよ、見てきてあげる。」 至極面白くなさそうに、そう吐き捨てたのだった。 「なんでわかったの?」 「わかるよ。ここのところ龍樹明らかにおかしかったもの。君がそれを気にしてるのもわかってたよ。」 どれだけ君らのこと見てきたと思ってるの、と水無瀬は少しむくれてみせて、すぐ後に破顔した。 ちゅっと触れるだけのキスをして、ひらひらと手を振り、部屋を出て行く。 「…ばか…」 そのキスで火のついてしまった発情期真っ只中の水樹を一人残して。 熱に浮かされながら、脳裏にちらつく龍樹の顔。 甘ったれのくせに甘え下手で、不器用という言葉がぴったり当てはまる龍樹だ。番になってから水無瀬と一緒にいる水樹には近寄らなかったし、水樹と水無瀬の話をすることすらもほとんどなかった。 それが、毎日のように一緒にいた。 何かが変だった。 その様子はまるで何かから逃げているようで、妙だった。 何かから逃げるのが悪いとは思わない。その逃げ場所として自分を選んでくれたのも嬉しい。 けれどさすがに発情期までは一緒にいるわけにいかない。 自分以外に頼れそうな人もいない龍樹が、その何かから逃げられているのかと不安なのだ。 怖い思いをしていないかと。 あの時の幼い龍樹の顔が、今も脳裏にこびりついている。 あんな顔を二度とさせたくなかった。 「俺も、弟離れ出来てないなぁ…」 水無瀬に嫉妬されても強く言えない。龍樹もあの時のような小さい子どもじゃないのに。 けれど、あの恐怖に慄く龍樹の表情が、忘れたくても忘れられないのだ。 Ωの発情期に当てられて豹変した誠司。入院が必要になるほどの怪我を負わされた龍樹。 龍樹が恐怖の視線を投げかけていたのは、誠司ではない。 獣と化した誠司に抑え込まれて歓びの声をあげる水樹だった。 誰よりも知っているはずなのに、発情期を迎えて未知の生き物になってしまった双子の兄に、龍樹は確かに怯えていた。

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