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第162話

僅かな布の擦れる音を立てながら、慣れた手つきでネクタイを締める。 グッとキツく締め上げると、身が締まる思いだ。 腑抜けた心身を改めるようで、水樹は発情期明けに制服のネクタイを締めるこの感覚が結構好きだった。 すると、白魚のような美しい手がそのネクタイをほんの少し持ち上げて、果実のような唇がそのネクタイに口付けを落とした。 「僕、水樹がネクタイ締めてるの見るの好きなんだよね。」 と、青い瞳が細められて。 「水樹の男っぽいところ見てる感じがして。」 悪戯に微笑んだ。 その微笑みが蕩けるように甘く、それでいて少しの苦味を含む絶妙なバランスのスイーツのようで。 甘いものが苦手なはずなのに、水樹はそのスイーツの虜になっていた。 「なに、それ…何処もかしこも男だよ。」 「うん、そうなんだけどね。だって水樹、僕の前では可愛いから…あいたっ!」 軽く脳天を叩くと、ペシっと小気味よい音が響く。 ひどいなぁとボヤく声を無視して、水樹は鞄を手にした。 「じゃ、先に行くから。食器はいつも通りシンクに下げておいてくれればいいからね。それから!」 強い語尾に、水無瀬の目がきょとんと丸くなる。 水樹はその中心をビシッと指した。 「今度は何に悩んでんだか知らないけど、話せる時に話してもらうから今はいい。バレてないと思わないでよね。」 水無瀬は一瞬だけ瞠目して、そしてくしゃりと下手くそな笑みを浮かべた後にひらひらと手を振るだけの返事をした。 ほんのり温まった心がその場に留まりたいと告げたけれど、それを振り払って部屋を後にした。 発情期明けは何かとすることが多い。 休んでいた間のプリント類や課題を貰いに職員室を徘徊する。クラスメイトからノートを見せてもらう。必要ならコピーを取る。これらは何一つ強制されているわけではないが、一つでも手を抜くとあとで痛い目を見るのは自分というのもよくわかっている。 水樹は朝から溜息を吐きながら先生方に頭を下げ、漸くそこを後にしようかという時。 耳に飛び込んできた名前に、思わず固まった。 「もー!落合先生放課後どこ行ってるんすか!課題出せって言うくせに全然いねーじゃないっすか!お陰で早起きして朝から購買の焼きそばパン買えました!」 「ごめんごめん図書室行ってて…て、焼きそばパン買えたの?いいなー!」 「あげないっす!」 発情期の間、龍樹は図書室に行っていたという。課題を手伝ってもらった、と。 誰に? 落合先生に。 水樹はゆっくりと振り返って、その人を見た。大きな瞳が印象的な、小柄な男性。 以前、水樹を龍樹と間違えて呼び止めたあの教師だ。 運命なんて知らなくていい。 水樹は黒い靄のかかった薄暗い気持ちのまま、職員室を後にした。

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