164 / 226
第164話
「ね、先生…最近龍樹変なんですけど」
いよいよ距離を詰めた水樹は、そのか細い腕をしっかりと握りしめた。逃さないように。
この前会った時と逆だなと思いながら少しだけ力を込めると、落合の顔が痛みに少し歪んだ。
「…変って。」
「絶対さぁ…」
「っ!」
グイッと力任せに腕を引くと、小さな身体は簡単に倒れてきた。受け止めてやらねばならないかと思えたが、なんとか倒れこむのは堪えたようだった。
バランスを崩した落合の耳は丁度水樹の口元にある。そこに、他の誰にも聞こえないように囁きかけた。
「先生、Ωでしょ?」
ほらまた、意地の悪い質問。
水無瀬から聞いて、この人がΩというのはわかっていたのに。
跳ね上がった身体は小さく震え出す。
ひゅっと嫌な音を立てた呼吸音が、落合の恐怖を物語っていた。
「やっぱりかぁ、先生わかりやすすぎ。」
掴んでいた手を離してやると、落合はその腕を軽くさすった。そんなに力を込めたつもりはなかったが、あの細い腕には過ぎた力だったかもしれない。
逃げるかと思った落合は、気丈にも強い瞳で水樹を見上げてきた。
「…Ωだけど、なに?」
「別に?ただ可愛い弟に悪い虫がついてるみたいだったから、確認しただけです。」
何か反論をしたかったのだろう、口を開きかけた落合はそのまま少しだけ俯いた。
そして消え入りそうな小さな声で、まるで自分にも言い聞かせるかのような苦しい声を出す。
「…龍樹くんとは何もない」
教師と生徒。
もしも本当に龍樹とこの人が運命の番なら、この人もまた、苦しんでいるのかもしれない。
運命が引きずり出す残酷で凄惨なまでの欲望に。
そのしがらみの中に、龍樹もいるのかもしれない。
「当たり前だよ、何かあったら困る」
それなら、会わなければいい。
今更悪役になることなど一片の迷いもなかった。元々お綺麗な感情だけの出来た人間じゃない。
龍樹のためと銘打って自分のために水無瀬の番になるくらいには、汚い人間なのだ。
嘘をつくくらい、どうってことはない。
「先生のことが嫌いで言ってるんじゃないですよ。ただね。」
ただ、自分の汚さにはほとほと嫌気がさすけれど。
「ただ、龍樹はやめた方がいい。龍樹はΩが嫌いだから。」
龍樹は綺麗だ。
純粋で真っ直ぐで曲がった事が嫌いな、物語の主人公のような。
その綺麗な心に嫉妬したのは、何年か前、龍樹と水無瀬が付き合っていた頃か。
あの頃のまま、未だ真っ直ぐな心の弟に、運命なんてものを知られたくなかった。
綺麗な心には、運命なんて毒だ。
運命に殺された誠司。
運命の番が死してなお、運命に縛られ続けた水樹。
そして運命が水樹にかけた鎖を解こうと苦しんだ水無瀬。
運命なんてものは、誰も幸せにしない。
ともだちにシェアしよう!