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第172話
「あ、帰ってきたね。」
遠目に見た二人の距離がなんとなく近いような気がした。
片方は見間違えるはずもないくらいに見慣れた弟で、もう片方は明らかに生徒ではなくて、脳裏によぎった一つの可能性を振り払いたくて安心させて欲しくてちらりと隣を見たけれど、生憎水無瀬とは視線が合わなかった。
既に番になってる、なんて。
連絡がつかなかったのは、まさかそういうことだなんて。
あるわけない。
水樹は自分に言い聞かせるように、ゆっくりとその言葉を飲み込み、声をかけてきた弟の背中を思い切り蹴飛ばした。
不安は、少しも吹き飛ばなかった。
「いっ!?〜〜〜〜〜っ!」
「うわーこれは痛い…」
「お前の飯ないからな!」
「しかも嘘吐くし。」
「バカ瀬うるさい!俺が全部食べる!」
「太るよ?」
「ほんと黙れお前!」
帰ってきた龍樹を罵り水無瀬と他愛のない口喧嘩を繰り広げながら、水樹たち3人を少しだけ離れた位置から微笑ましく見守っている落合のうなじから意識を逸らすことが出来ずにいた。
知り合って間もない教師という立場の人間を、生徒という立場である龍樹が自ら噛むとは思えない。運命を振りかざして発情期で誘惑して、番にならざるを得ない状況に追い込んだとしか思えない。
噛み跡さえ付いていなければ、それでもいい。
その先生とゆっくり恋を育み、卒業して龍樹が大人になって、そして番になるのなら。
龍樹をめいっぱい抱きしめて、祝福することが出来たのに。
「じゃ、俺は先に行くね。みんな遅くならないようにね。」
祈るような思いで様子を伺っていた水樹の真横を通り過ぎた落合のうなじに付いた、まだじんわり血の滲む真新しい噛み跡を見た瞬間、水樹は目の前が真っ暗になった気がした。
立ち去っていく小さな後ろ姿。
細くて頼りなくて、蹴り飛ばしたら簡単に吹っ飛んでしまいそうなその背中を、ふらふらと追いかける。
「水樹?どうした?」
龍樹からの呼びかけに、どう答えたのか水樹は覚えていない。
へらりと笑って誤魔化して、多分、先に帰っててとか適当なことを言ったんだろうと記憶している。
龍樹がスッキリと迷いの晴れた表情であったことに、気付くはずもなく。
強烈に覚えているのは、その後のことだ。
「ね、落合先生!」
一人立ち去った落合の背中を追いかけて、呼び止めて、振り返ったその顔。
しまった。
ありありとそう書かれたその顔が、強烈に記憶された。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど…明日の放課後、付き合ってもらえませんか?…そうだな、部室棟の一番奥の部屋とか。」
別に、教師と生徒の恋が悪いとは思わない。
別に、龍樹がちゃんと恋をした上でΩと番になったのなら何の文句もない。
けれどもし、Ωの発情期に当てられて不本意に番にしてしまったのなら。そしてそれに責任を感じてそのΩの隣にいるというなら。
誰であろうとその人を、許せるはずもない。
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