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第173話
部室棟の一番奥の部屋。
一際古びたドアノブのそこは水樹にとって、嫌な思い出も良い思い出もある場所だった。
『汚くないよ。』
名前も知らない同級生に乱暴された。天上の美貌を携えたあの人に、ボロボロになって転がされていた自分を見られた。美しいものしか似合わないとさえ感じるあのガラス玉のような瞳にそんな汚いものを見せたくなくて、ただただ混乱する水樹に、あの人は言ってくれた。
『汚いのは、相手の方でしょ。』
「今思えば、水無瀬も全然綺麗じゃないよなー…」
目的の為なら、生きる為ならなんだって構わない。
元はと言えば金の為に水樹を番にしたような、最低な奴だ。
いつからあんな風に優しくなったんだっけ。変なところだけ優しくて、随分混乱させられた。水無瀬の事情と心境を知った今なら、あれが歪んだ愛情しか知らない水無瀬なりの精一杯の優しさだったのだとわかるけれど。
けど、辛かった。
不本意に番になってしまって。
同意でない番関係なんて、苦しいだけ。もしも龍樹が、その気がないのに番にさせられたんだとしたらと思うと、目眩がしそうだ。
「入らないの?」
ドアの前で立ち竦む落合に、事の顛末を聞かなければ。水樹は冷静になろうと、深呼吸した。あまり意味はなかった。
「まぁまぁそんなに身構えないでくださいよ、ほんとにちょっと聞きたいことがあるだけだから。」
今はどこの部活も使っていないこの部屋は、普段使っている陸上部の部室と作りは同じだ。真っ暗な部屋でもどこに電気があるかはわかる。
パチンとやたらスイッチの音が響き、少し間を置いてから明かりがついた。
水樹が乱暴されたあの時となんら変わらない。
長椅子の数、位置。錆びたロッカー。長く換気されていないせいかムッと少し臭う。
本当はこんな部屋来たくなかったけれど、ここ以外に人目を避けてゆっくり話ができそうなところも知らなかった。
嫌な思い出が顔を出すかと思ったが、水樹自身意外なほどにあの時のことを既に消化してしまっていた。
きっと、その後の方が辛かったからだと思う。
水無瀬と番になった後の方が。
「それで、聞きたいことって…」
警戒しているのか一歩だけしか部屋に入らない落合に背を向けたまま、水樹は落合の質問に答えた。
「それ、龍樹ですよね。」
答えた、というには少し語弊があるが。
「その首の傷パッドの下、龍樹がつけた噛み痕ですよね」
かち合った視線を逸らしたのは、落合の方だった。
小さな落合が俯いてしまうと、その表情は伺えない。しかしギュッと握られた拳が白くなっていたから、少なくとも穏やかではないはずだ。
水樹は黙って落合の言葉を待つ。ほんの数秒のその間、しん、という音が聞こえた気がした。
「龍樹くんはやめたほうがいいっていう君の忠告を忘れたわけじゃない、けど。」
やがて聞こえた声は震えていた。
しかしその震えた声はすぐに芯を持って篭った空気を裂くように響く。
落合の気持ちの強さを表しているようで、それが妙に腹立たしい。
ちゃんと愛しているなら、順序というものを守れるはずだ。
発情期というΩが唯一持つ力で殴らなくても、よかったんじゃないのか。
聞けば聞くほど猜疑心に満ちる。それは落合が次に口にした言葉が、決定打となった。
「けど、どうしようもないんだ…惹かれてやまない、龍樹くんしか考えられない。だって、だって俺たちは、」
運命の番だから。
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