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第174話

『水樹は俺の運命の番だ!』 誠司の声が木霊する。 当時はまだ、運命の番なんというものを綺麗なものだと思っていた。御伽噺に出てくる、愛の証。 『俺にしか、水樹に本当の幸せは与えてやれないんだ!俺と水樹は運命の番なんだから!』 それが覆されたのも、誠司の言葉だった。 「運命、ねぇ…」 ざわり、と背中に何かが這う。まるで大量の虫がシャツの中に入り込んだような感触。それの正体を水樹自身知りたくなかった。 「水樹くんだって運命の番くらい知ってるだろ?目が合った瞬間に通じ合う魂の番…都市伝説なんかじゃない、自分が自分でいられなくなくなるほど焦がれてやまないんだ。どうしようもなくて、龍樹くんがα家系だってこととか、立場でさえどうでもよくなって、欲しくて欲しくて!」 落合の大きな瞳から大きな雫が溢れた時、水樹の背中を這ったのはより大きな不快感だった。 ざわざわと背中を這う感触は大きく範囲を広げるばかりで、水樹はぎゅっと己の腕を抱きしめた。 「龍樹くんは若い…だからこの先捨てられるかもしれないし、それでもいい。それでも俺は幸せだから…」 決壊したダムのようにボロボロこぼれる涙は、真水のように透明で、とてもとても綺麗だった。 その綺麗な涙を汚していくのは、落合自身の言葉。 龍樹が、番相手を捨てる? そんな非道なことをする奴だと思っているのか。捨てられても龍樹を愛するから、なんて、健気でも何でもない。悲劇のヒロイン気分のただの自己陶酔じゃないか。 そんなナルシシズムの為に龍樹を悪役に仕立てるなんて、許せない。 背中を這う虫の名は、怒りだ。 怒りに唇を戦慄かせ、その思いのままに声を上げようとした時。 落合の言葉にその怒りが吹っ飛んだ。 「αの水樹くんにはわからないかもしれないけど…Ωにとって運命のαに噛んでもらうって、この上ない幸福なんだよ」 この人、一体何を言っているんだろうと。 思えばこの人との会話はどこかズレる。運命の番の素晴らしさに憧れるのも、番に捨てられた後のΩの末路を悟らせるようなことを話すのも、同じΩの水樹に語るのはどうにも不自然だ。 近寄っただけで妙に怯えて来たりするのも納得がいかない。 「先生、今なんて言った?」 もしかしてこの人、根本的に何か勘違いをしているんじゃないだろうか。 「え、Ωにとって運命の…」 「違うその前。」 「αの水樹くんにはわからないかもしれないけど。」 「俺αじゃないよ?」 「え?」 今度は落合がキョトンとする番だった。代わりに水樹の顔から笑いが溢れる。 こんな顔、絶対に水無瀬にも龍樹にも見せられない。明らかに侮蔑を含んだ微笑みだった。 「なんか、面白い勘違いしてるね?」 ネクタイを緩めてボタンを外す。 まとわりつく湿気に少し汗をかいた髪を払い除けると、それは露わになる。 何よりのΩの証。 何よりも大切な、水無瀬の噛み跡だ。 「俺、Ωだよ。」

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