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第190話

気がつくと夏休みを迎えていた。 水樹は甚平の袖を肩にかけるようにして限界まで捲り、扇風機をお供に縁側に胡座をかいてひたすらうちわを仰いでいる。 茹だるような暑さの中、昨夜自室のエアコンが悲鳴を上げた。目の前に広がる日本庭園と軽やかな鹿威しの音だけが涼しげだ。 修理は今日の夕方になるらしい。場合によっては買い換えるかもと。そうなると更に日数が必要だ。 居間やら龍樹の部屋やらに避難すればいいのだけど、どうにもみんなと騒ぐ気分になれず、暑い自室でこうしてうちわを仰いでいるのだった。 「あっついな〜…はぁ…」 家族と騒ぐ気になれないのは他でもない。 水無瀬のことが気掛かりだからだ。 水無瀬はどんな目的であれいつかは自分と結婚する気でいてくれたのだと思う。 そしてそうすることで幸せになれるかもしれないと期待してくれていたこともわかる。 けれど、思わぬところで多額の借金を背負ってしまった。 それを水樹にも背負わせるわけにはいかないから、身を引こうとしているのだろう。 「…バカ…」 俺はそれでも構わないと言ってあげたら良かったんだろうか。それで納得したんだろうか。あんな悲痛な涙を流させずに済んだのだろうか。 答えはきっとノーだ。 小さなつぶやきは、蝉の鳴き声に掻き消された。 ごろんと後ろに倒れると、裸足のつま先が僅かに視界に入る。水樹は眉間に皺を寄せながら、不躾な訪問者に文句を言った。 「…声掛けろよ愚弟が。」 「何度もかけた。お前が気付かなかったんだろ。」 龍樹は水樹の隣で健気に最強の風速で回り続けている扇風機を止めると、くいと親指で廊下を指し示した。 「アイス買いに行くから出てこいって父さんが。」 「…要らない。」 「熱中症になるぞ。要らなきゃ買わなきゃいいんだから出ろほら。」 「引きこもりに外に出るように促される日が来るとは…」 「今年は引きこもってねーよ。」 未だだらだらと畳の上に寝転んでいる水樹の両腕を強引に引っ張って身体を起こす龍樹は、この夏休みはなるべく本ではなく家族と過ごすようにしているようだった。 それも全て番になった落合のおかげだ。 龍樹は帰省するなり両親と祖父母に番の存在を告げ、会って欲しいと頭を下げた。相手の両親にも会いに行くつもりだと。 長らく龍樹から声をかけられたこともなかった祖父は泣いて喜び、その日の晩は豪勢な寿司が出てきたのだった。 祖父が根掘り葉掘り落合について龍樹に聞く姿を、父が難しい顔をして見ていたのは、恐らく龍樹は気付いていない。 落合と両親の顔合わせは少しだけ山があるかもしれない。 そう懸念したが、龍樹の変わりように日々父の視線が柔らかくなっていくのを見て、水樹は心からホッとしたのだった。 ホッとしたからこそ、水無瀬のことばかり考えてしまうのだった。 水樹はよっこらせと似合わない掛け声に暗い気持ちを隠して、汗ばんだ甚平を脱ぎ捨てた。 一番高いアイスを買ってもらおうと心に決めて。

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