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第203話

ギリギリのラインで保たれていた水無瀬の心は、もう限界だったのだろう。水樹の後ろ姿を見送る、そんな些細なことでふつりと糸が切れてしまうほどに。 痛いほどの抱擁は、そのまま水無瀬の心の悲鳴を表しているようだった。 しかしほんの数秒だけで、水無瀬は顔を上げた。 「ありがと、もう大丈夫。…戻ろうか。歩ける?」 月明かりが照らし出すその表情は意外にも明るい。それも、空元気などではなく本当に心から微笑んでいるように感じた。 少々驚いたものの、少し様子を見ていてもその笑顔に偽りがあるようには見えない。 きっと、水樹が助けに来たことでなにかが吹っ切れたのだろう。 そう信じて立ち上がろうとしたが、血だらけの足はもう使い物にならなかった。気力だけでここまで走ってきたのだから当然といえば当然だが、ふっと笑われてしまうとそれが妙に恥ずかしくなって、俯くしか無くなってしまった。 「もう、しょうがないなぁ。」 まるで月の使者のようにその明かりを自分のものにして微笑む水無瀬は、水樹の手を取ってふわりと優しく立たせてくれた、と思ったら、まるで俵のように担ぎ上げられた。 突然の浮遊感とひっくり返った視界に、短い悲鳴を上げてしがみつくしか選択肢はなかった。 「うわ、重っ!」 「ちょ、怖い!怖いから!無理無理降ろして!」 「だって歩けないんでしょ?暴れないでよ、ただでさえ重たいんだから。」 「人をデブみたいに言うな!」 力一杯水無瀬の浴衣を握りしめてぎゃあぎゃあ文句を言う水樹の話を聞いているのかいないのか、うるさいよという言葉とともに結構な力で尻を叩かれて黙らされてしまった。 水樹が大人しくなったのを確認して、水無瀬はゆっくりと歩き出す。 その歩みは、先ほどの揺らぎはなくしっかりしていた。 「ねぇ水樹。」 「ん?」 「卒業したら結婚しようか。」 「…ん!?」 「暴れないでってば。」 「痛い!」 聞き間違いかと身体を起こして振り返ってみると、また尻を叩かれて黙らされてしまう。 すごいことを言われた気がするのに、ムードは欠片もない。 「…もう君の後ろ姿みたくないから。」 波に攫われてしまいそうだった震えた声は、今はしっかりと水樹の耳に響いてくる。 出会った時より低くなった、けれど変わらず甘くて痺れさえ感じる歌声のような極上のテノールだ。 「流石に借金まで背負わせたくないと思ったけど、もういいや。僕の側で僕のために悩んで僕のために不幸になってよ。」 そのテノールが紡ぐ言葉に甘さは微塵も無い。番になったときと同じだ。相変わらず、甘い声で酷いことばかり羅列する。 しかし水樹はまた涙がこみ上げてきた。 番になったときとは違う、歓喜の涙だ。 「…なにそれ…そんなプロポーズ聞いたことない…」 「返事は?三択あげるよ。はい。うん。よろしくお願いします。さぁ選んで。」 「全部イエスじゃん…」 水無瀬はまた笑った。 今度は自嘲ではなく、楽しげに。 必ず幸せにするとか、一緒に幸せになろうとか、そんな曖昧な約束はいらない。 欲しいのは、一緒に不幸になる覚悟。 やっと、同じ目線で愛し合っていることを実感できたのだった。

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