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第205話
水無瀬は少し俯いて机の一点を見つめていて、長い睫毛が真っ白な頬に影を落としている。
透明な瞳の中にある感情は読み取れない。表情も変化がなく、それこそ絵画のようにそこに座っている。
「母は心を病んで入院しています。どの道僕は大学には行けません。卒業したら、水樹の前から姿を消して借金の返済のために生きるつもりでした。」
その言葉に水樹が反射的に水無瀬を見上げると、吸い込まれそうな青い瞳と視線が合わさった。
冷たいガラス玉のようだと常々思ってきたその瞳は、今は暖かな陽だまりのよう。その瞳の中に、自分だけが映っている。
「…けど、彼無しに生きていける気がしないんです。」
くしゃりと水無瀬の絶世の美貌が歪んだ。
今にも声を上げて泣いてしまいそうなのに、口元は笑っている。不器用な笑い方だ。
重なった手をキュッと弱々しく握られて、水樹はその手の冷たさが水無瀬のもつ冷え性からではなく緊張からであることを悟った。
「きっと幸せになんてしてあげられません。苦労と心配ばかりかけると思います。だけど、それでも僕を選んでくれた水樹を、手放したくないんです。」
すみません、と水無瀬は頭を下げた。
頭なんか下げたら、涙がこぼれてしまうのではないかというほどの濡れた瞳で。
「…なるほど、つまり二人とも大学には行かず働いて、その借金を返して行くと。」
水無瀬は顔を上げない。
難しい顔をする父に、水樹はぎこちなくコクリと頷いた。
数分経ったように思えた。
誰も身じろぎひとつしない。水無瀬は父に向かって頭を下げたまま、父はそんな水無瀬を複雑な表情で見つめたままだ。
何か言わなければ、と口を開いては閉じて、喉はカラカラに乾いてきてしまった。
その空気を破ったのは、意外にも祖父だった。
「あー…水無瀬くん。借金はいくらなんだ?」
祖父の、年の割にハリがある声に視線が集中した。
水無瀬も顔を上げて祖父の顔を不思議そうに見ている。その瞳に、先程の涙の影は少しもなかった。
「500万です。」
「500か…ふむ。」
祖父はぽりぽりと頬をかきながらよっこらせと立ち上がると、ちょっと待ってろと言って部屋を出て行った。廊下から呑気に祖母を呼ぶ声がする。
開けっ放しの襖から祖父が戻ってくるまでに、水樹と水無瀬は何度も顔を見合わせた。
5分ほどしただろうか。
戻ってきた祖父の手には、一冊の通帳。祖父はその最後のページを開き、机に置いて皆に見えるようにした。
「…誠司のために作った口座にな、600万弱残ってる。それを使いなさい。」
「父さん!?」
すぐさま抗議の声をあげたのは、言わずもがな父だ。
滅多に聞かない父の狼狽した声。祖父は全く気にも留めずに水樹を見つめた。
「誠司はまだ大学生だったからな。あいつは私立だったし…院だの留学だのと言い出したりするかもしれん。結婚したらご祝儀が必要だし、子どもが生まれたらお祝いしてやりたい。そのために貯金してあったんだが…」
祖父は首を振ってその先を濁した。
いつも溌剌とした祖父の初めて見る疲れた表情。悔やみきれない、そんな表情だ。
「ばあさんと決めてたんだ。いつか水樹が金に困るようなことになったら使おう。誠司もそう望むだろうってな。…本当は、あの時使ってやればよかったのかもしれんが…言いだす前に死んじまったからなぁ。」
祖父は僅かに笑顔すら浮かべていた。しかし、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
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