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第206話

そういえば、祖父の涙は見たことがない。誠司が亡くなった時も、祖父は真っ直ぐに遺影を見つめて祖母の肩を抱いていた。 父親とはどんなに悲しくても泣かない生き物なのかとその時思ったが、そんなはずない。 きっと誰も見ていないところで、誰より悲しんだに違いない。実の息子が自殺するまで追い込まれていたのに、助けてやれなかったことを。 「庸は気に入らんと思うがな、これは俺が貯めた誠司の金だ。誠司はきっと、水樹のためなら使うだろうよ。」 祖父は静かにそう言って開いたままだった通帳を閉じ、呆然とする水無瀬に無理やり手渡した。 その表紙には、少し褪せてはいるもののしっかりと橘 誠司の名前が入っている。 通帳を手にしたまま祖父の顔を凝視する水無瀬に、祖父はニカッと笑った。 「残りはギャンブルと浮気以外なら好きに使え。まぁ個人的には折角出来のいい頭してんだから大学行く資金にしたらどうだろうと思うが、お前さんに託した金だ。どうこう言わんさ。」 そして祖父は右手で水無瀬の頭を、左手で水樹の頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でて、トイレトイレと尻をかきながら出て行った。 残された水樹たちの間に、微妙な空気が流れる。 水樹は青い瞳を丸く開いて通帳を凝視する水無瀬と、困ったように頭をかく父を交互に見るしかできない。 「…あー、本当にあの人は…」 父は小さな独り言を零して、もう温くなっただろうお茶を一気に飲み干すと、水無瀬の正面に座り直した。 「で、図らずとも借金の問題がなくなったみたいなんだけど…水無瀬くん、水樹、どうするつもりなのかな。」 こんな展開は予想しているはずもなく、水樹は困り果てて水無瀬の顔を見た。 水無瀬は通帳を開き、その金額を確認している。何度見ても、ぽんと渡せる額ではなかった。 水無瀬は少し考える素振りを見せ、ゆっくりと口を開いた。 「…このお金をいただいたとしても、借金を返して、大学4年分の学費は僕の家では賄えません。結婚は延期して、僕は働きます。水樹は、やりたいことをやらせてあげてください。」 「ちょ、水無瀬勝手に…」 「行ける環境があるなら、行った方がいいに決まってる。…お願いします。」 水無瀬は水樹の方を一度も見ずにそう言い切って、父に頭を下げた。 行った方がいいに決まってる、なんて断言するのだから、きっと水無瀬が一番大学に行きたいはずだ。 特にやりたいこともなくただなんとなくで大学に行こうとしていた自分なんかとは違って。 「…ここで一つ、親バカな父から提案があるのだけど。」 ギュッと拳を握りしめて俯いた水樹の顔を上げさせたのは、コホンという父の小さな咳払いと共に出されたその提案だった。 「結婚、したらどうだろう。」

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