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第207話

息を呑む音なんて初めて聞いた気がした。 弾かれたように父を見ると、これまでピリピリしていたのが嘘のように静かで、穏やかで、優しい空気を纏っている。それはいつもの父の姿で、水樹は知らず肩の力が抜けた。 「父上は他界、母上は入院中だったね。収入のあてがないから大学には行けない、で間違い無いかな。」 「はい。」 「その状況じゃ奨学金もなぁ。」 「…はい。」 「というわけで、婿に入って僕の息子になったらどうだろう。」 「…………はい?」 水無瀬の返事が聞いたこともない素っ頓狂中ものになった。 水樹の脳内も既にキャパシティをオーバーし、馬鹿みたいに口をポカンと開けて父の顔を見た。 父は、少し苦々しい笑みを浮かべて、机の上で指を組んでいる。 「水樹が水無瀬くんを本気で大切に思ってるのはわかっているつもりだし、いずれは結婚すると思っていたさ。ただね、借金があるなら反対するつもりだった。…色々、あったからね。もう要らない苦労はして欲しくない。」 組んだ指先に視線を落とし、父が何を思うのかはわからない。 誠司のことか、それとも水樹の将来のことか。あるいは別の何かか。 普段若く見える父が、その時ばかりは年相応に見えた。 父は少し押し黙って、視線を上げてにこやかに水無瀬を見つめた。その視線に先程までの厳しさはない。 「どうだろう。もし水無瀬くんがやりたいことがあるなら、大学に行くのを助けるよ。奨学金の保証人には僕がなる。ただし返済は自分で…自分たちですること。それが条件だ。」 最初は水無瀬に向かって言った言葉を、父はわざわざ言い直し、水樹にも言い聞かせた。 「養子縁組でも構わないけど、いずれ結婚するなら手続きを一度に済ませられるように結婚という形を取ってもいいと思うんだ。君たちが形にこだわらないならね。」 水無瀬が水樹と結婚すれば、戸籍上水無瀬は庸の息子になる。奨学金の保証人としてはなんら問題ない関係性になれる。水無瀬は大学に行き、学び、将来の可能性を広げることができる。 水樹はなんとかそこまで理解して、パッと水無瀬の顔を見た。 呆然と口が開いている。が、滑らかな白い頬に赤みがさしているのを見るに、ある程度は理解できているようだった。 「成績によってはある程度学費が免除になる制度がある大学もあるはずだし…今から探してエントリーするのは難しいかもしれないが、一年くらい浪人したっていいと思うよ。今までずっと頑張ってきたんだろう。たった独りで。」 父は続けて言った。 「よく、頑張ったね。」 と。 水無瀬が俯く。 その肩は震えていた。 たった独り母からの暴力に耐えながら、己の境遇を悲観する間もない程に勉強に明け暮れたに違いない。 それは他でもない、自分自身の未来のため。生活に喘ぎ苦しみながらでも、なんとか高等学校を卒業するために。ある程度の学歴を備えて就職するために。 ようやっとそれが見えたと思った矢先の借金に、どれだけ絶望したことか。 暴力を振るいながらも愛していると囁いてくれた母からの存在否定に、どれだけの涙を流したことか。 それが今、借金返済の資金と大学進学への道標が突然現れた。 水樹の隣という、安息を約束された場所も。 「…ありがとう、ございます…」 絞り出した言葉は、それが精一杯。 それ以上水無瀬は何も言えなかった。宝石のような瞳からいくつもの透明な雫をこぼし、握りしめた拳を濡らしていく。 父がそっと出て行った時、水樹の瞳からもたくさんの涙が溢れ出ていた。

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