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第208話
「水樹って本当は幸運の女神様みたいな何かだったりするの?」
宗教画から抜け出してきた天使様と呼ばれる男は、その誰もが感嘆の溜息をこぼす透明度の高い青い瞳を泣き腫らして真っ赤にしながら言った。
「そんなわけないじゃん…そういう水無瀬はほんとに天使なわけ?」
「ふふ、そうだね。そんなわけないね。」
水無瀬はこめかみに手を当てて軽く揉んでいる。泣きすぎて頭痛がするらしい。深く呼吸を繰り返し、少し落ち着きを取り戻した水無瀬は、不意に水樹を見つめてきた。
目が少し腫れているとは言え、整い過ぎた美貌がじっと自分を見ているのは未だに慣れる事が出来ない。
水樹はその視線を逸らし、居心地悪く身動ぎした。
「な、なに…」
「ん?んー。いやね、キスしたいなって思ったんだけど、流石に家族の誰がいつ来るかわからない居間じゃ嫌だろうなって思って。」
だからいいや、とにっこり微笑んだ水無瀬の笑顔は、これまでにないほどに晴れやかだ。窓から入る夏の厳しい日差しが、水無瀬のために燦々と輝いているかのよう。
水樹はそれにほんのり頬を染め、視線を膝に落とした。
ふと記憶の隅にある景色が蘇る。
水樹は少し迷って、口を開いた。
「離れ、行こう。あそこなら、誰も来ないし…き、聞こえないし。」
昔、独りで発情期に耐えたあの場所なら、わざわざ用事がないと誰も近寄ったりはしない場所だ。当然、いくら声をあげても聞こえるはずがない。だからあそこに閉じこもっていたのだから。
口にしてから、これからする事を思い浮かべて顔に熱が集まってくる。なんとか言えよ、という思いを視線に込めて再び水無瀬を見ると、水無瀬はきょとんとしてしまっていた。
「…水樹、僕はキスがしたいって言ったつもりだったんだけど…」
その小さな弁解に、水樹はボッと顔から火を噴いた。
「…っ!あ、い、嫌ならいい!!」
恥ずかしい。
恥ずかしすぎる。
水樹は顔どころか耳や首まで真っ赤にして、その場に平伏してなんとか水無瀬の視線から逃れた。
水無瀬はただキスがしたいというだけだったのだ。当たり前のようにその先も想像して、勝手に一人で盛り上がって場所まで提案したりして。
あまりの羞恥に涙さえ浮かんできそう。
そんな水樹の顔を上げさせたのは、他でもない水無瀬の小さな笑い声だった。
「嫌なわけないでしょ。行こう。」
体温の低い手がふわりと水樹の手を取り、そっと立ち上がる。
釣られて立ち上がった水樹は、足を怪我しているというのにまるで羽でも生えているのかと錯覚するほど身が軽く感じた。
目の前に惜しげも無く晒される天使の微笑みが、そうさせていた。
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