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3ヶ月後、夏休みを迎える前に彼女とは破局した。
「誠司くん、私より甥っ子が大事みたいだから。」
そう言って彼女は寂しそうに去っていった。引き止めはしなかった。事実だったから。
悲しくもなかった。寧ろこれでまた堂々と休日に甥っ子たちと遊びに行けるとさえ思った。
そして誠司は進級して高校3年生になり、大学受験のために本格的に準備を始めたが、無理にレベルの高い大学に行くつもりはなかったために今の学力で行けるレベルの教育学部を受験した。
将来は小学校の先生になろうと思っていた。
きっと、自分は子どもが好きなのだ。とても子どもが好きなのだ。
だから甥っ子たちとの時間を大切にしたいと思う。やたらと甥っ子が可愛く見える。そうだそうに違いない。
誠司は日々笑顔の輝きを増す水樹に、僅かな心のざわめきと大きな戸惑いを感じながらも受験を乗り越え、無事大学生になった。
───
「誠司おじさーん!見て見て!」
大学生になって、曜日毎に登校時間も下校時間も変わる不規則な生活に慣れ始めた頃。
ぱたぱたと軽い足音を立てて廊下を走ってきた水樹は、ノックもせず誠司の部屋の襖を開けた。
「じゃーん!」
と、襖を開けるなりくるりと回って見せた水樹は、振り返って鼻息荒く踏ん反り返り、キラキラした期待に満ちた目で誠司を見上げた。
かっちりしたグレーのスーツに、赤い小さなネクタイ。半ズボンから覗く白く細い足には、小洒落たワンポイントが刺繍された白い靴下。
その背には、ピカピカのランドセル。
「お、いい!似合うじゃねーか!」
「へへっ!龍樹とお揃いー!じいちゃんが買ってくれた!」
「龍樹はどうした?見せに来てくれねーの?」
「汚したら嫌だってすぐ脱いじゃったんだよあいつ。ランドセルも押入れ入れてた。」
「なんだ面白くねーの。」
「ねー!」
そう言いながらとてとてと小走りで誠司の部屋に上がりこみ、ベッドに腰掛ける誠司に両手を伸ばしてきた。誠司はそれを迷いなく受け止めて軽々と抱き上げると、ランドセルが邪魔にならない横抱きで膝に座らせる。
随分大きくなったが、まだこうして膝に乗せても視線は下だった。
「ね、カッコいい?」
「カッコいいカッコいい。俺の次に。」
「うそー!誠司おじさんTシャツにパンツじゃん!」
「お前がノックもなしに部屋入ったからだろ!」
「あはははっ!」
「笑ったなこいつー!」
満面の笑みを浮かべて楽しそうに両脚をばたつかせる水樹をギュッと両腕で抱き込んで抑え込むと、ふわりと甘い香りがする。
水樹が生まれた時から感じるその甘い香り。赤ちゃん特有の甘いミルクの香りじゃないかとやんわり兄に諭されたその香りは、成長するにつれて消えていくどころか強くなる一方だ。
たまらなく愛おしいその香りを堪能したくて、誠司は度々こうしてふざけたふりをして水樹を抱きしめてその髪やうなじに顔を埋める。すると一層強く香るそれは、誠司の胸の内まで温かくした。
そしてその香りは、龍樹からは一切感じない。
まずいとは感じ始めていた。
まだ幼児の域を出ない甥っ子に抱くべきではない感情と欲望を。
誠司はそっと膝から水樹を下ろすと、着飾った姿を上から下までじっくりと眺める。水樹もニコニコしながらどうしたの?と小首を傾げて見返してくる。
そんな水樹に抱く感情が、可愛いから愛しいになり始めていることに、誠司は薄々気付いていた。
「…腹減ったなー。水樹、それ脱いでさくら屋行こうぜ。芋羊羹買ってやるよ。」
「えー俺豆大福がいい!」
「渋いよなお前…わーった大福も買ってやるから帰り道で食えよ。龍樹にはないんだから誰にもバレるなよ。」
手を差し出すと迷いなく握り返してくれる小さな手。
「わーい、誠司おじさん大好き!」
全幅の信頼を寄せてくれる屈託のない笑顔が、いつか自分のせいで歪んでしまうのではないか。
そんな恐怖に、誠司は時々苛まれている。
まだ6歳。
来年度小学校に入学する水樹は、まだ愛も恋も知らない幼い子どもだった。
───
数ヶ月後、甥っ子たちが小学校に入学した。
入学式の日は春の嵐で、土砂降りの大雨だった。
水樹が自慢気に見せてくれたフォーマル服も真新しいランドセルも雨水に濡れて、しょんぼりした双子を真ん中に家族全員で写真を撮った。
それが、誠司の最後の家族写真となる。
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