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「…誠司、ちょっといいかい?」
帰宅した誠司に声をかけたのは、困り果てた顔をした庸だった。
「何?」
「水樹がね…帰ってきてから部屋に閉じこもって出てこないんだ。龍樹から聞くにお友達と喧嘩したみたいなんだけど…僕も沙耶香もお手上げでね。ちょっと行ってきてあげてくれないかな。」
夕飯も食べずに、もう数時間になるという。
水樹は割と気が強くて喧嘩っ早い性格をしていたので、龍樹を一方的に言い負かすことはしょっちゅうだし、友達と喧嘩をすることもしばしばあったが、こうして閉じこもってしまうのは初めてのことだった。
誠司は手だけ洗うと真っ直ぐ水樹の部屋に向かう。
いつもと同じ襖が、どこか大人を拒絶する空気を醸し出しているような気がした。
「水樹?ただいま。ちょっと開けてくんね?」
沈黙。
しかし少しだけ待ってみると、そろりとほんの小さな隙間が開き、水樹の大きな瞳が覗いた。
そろりそろりと襖が開き、水樹が顔だけ出してあたりを確認する。そして誠司しかいないことを知ると、遠慮がちに誠司を見上げた。にっこり笑ってやると、少しだけ表情を和らげ誠司の手を取って部屋に引き入れてくれた。
子どものくせに物が少ないきちんと整頓された部屋。神経質そうな龍樹の方が、部屋は乱雑だ。
誠司はベッドに腰掛けて水樹を抱き上げた。
「喧嘩したんだって?」
「うん…」
「どうした?珍しいな、落ち込んでるじゃん。」
水樹はちらりと横に視線を逸らした。その先にはゴミ箱。
水樹はすぐに視線を戻し、うつむきながら小さな声で話し始めた。
「今日、算数のテストで。」
「うん。」
「俺、あんま出来なくて…」
「うん。」
「そしたら、クラスの奴が、龍樹の方が弟なのに、龍樹の方が頭良いんだーって…」
「うん。」
そこまで話して、水樹の口が戦慄き、そしてへの字に曲がった。
そっと頭を肩に押し当ててやると、こてんと素直に寄りかかってくる。やがてじわりとTシャツに湿った感触が広がった。
「俺、兄ちゃんやだ…」
「なんで?」
「龍樹より勉強出来ないもん…」
ぽんぽんと背中を叩いてやると、ヒクッと小さくしゃくりあげる細い肩。
「そっか、悔しかったな。」
そう言ってやると、水樹はギュッと誠司にしがみついて声を上げずに泣いた。
双子は、難しい。
ほんの数分の差で、兄だ弟だとイメージをつけられてしまう。
「でもさ、水樹は龍樹より速く走れるだろ?いいじゃんそれで。誰だって得意不得意があるんだからさ。」
「でも、勉強できた方がいいよ…」
「そうとも限らねーぞ?運動ができる方が女の子にはモテる!」
大袈裟に言ってやると、水樹はやっと顔を上げた。
大きな瞳に涙をためて、きらきら輝いている。ほんのり赤く色付いた目元は、どこか艶を感じさせた。
まだたった、8歳の子どもが。
誠司はその艶っぽい目元から視線をそらすべく、水樹をギュッと強く抱きしめた。
ふんわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「算数なんかちょっと頑張ればすぐ得意になれるけどな、走るのはどんなに頑張ったって得意になれないこともあるんだぞ?自信持て!」
「ほんと?」
「ほんとだって!俺が嘘ついたことあったか?」
「あるよ!美味しいよって渡してくれたお寿司に山葵すんごく入ってた!」
「アレは…ほら…戯れだろ…」
記憶に新しいその言及にバツが悪くなって目を逸らした誠司に、水樹はようやく楽しそうに声を上げた。それにホッとした誠司は膝から水樹を降ろすと、手を取って軽く握ってやる。
しっとりした柔らかい手だ。
「飯、一緒に食おうぜ。俺腹減ったよ。」
「うん!」
きゅっと握り返してくれるその手が愛しいと、確かに思った。
それは親愛の情だと、心の中で暴れ狂う正体不明の獣を抑え付けた、つもりだった。
文句を言われながらすっかり冷めてしまった肉じゃがを温め直してもらって2人だけで食卓を囲み、久しぶりに一緒に風呂に入って、上気した頬から目を逸らすために大袈裟に水を掛けたりしてはしゃいで、そして水樹は当然のように部屋から枕を持ってきた。
「誠司叔父さん、一緒に寝ていい?」
一瞬の戸惑いを悟らせるわけにもいかず、誠司はしょうがねぇなと布団を捲って手招きした。
ごそごそと潜り込んでくる水樹は、誠司の胸にピッタリと頬を寄せて嬉しそうにふにゃりと破顔した。
「この甘ったれ!」
「へへっ!」
ちょっと強めに頭をぐしゃぐしゃ撫でてやると、水樹は楽しそうに笑った。
電気を消し、布団を丁寧にかけてやり、誠司は少しの躊躇いを感じながら水樹の肩を抱いて優しく抱きしめる。
もぞりと身動ぎする小さな温かい身体。
「誠司くん、いい匂いする…」
眠気を感じさせるとろりとした声で、うっとりと誠司の胸に顔を擦り寄せ水樹はそう呟いた。
普段は誠司おじさんと呼んでくる水樹が自分を誠司くんと呼ぶときは、めいっぱい甘えたい時だと、とうの昔に気付いていた。
「もう寝ろ。」
おやすみ、と背中を撫でてやれば、直ぐに穏やかな寝息が聞こえて来る。その寝息を聞きながら、誠司は己の中の獣の正体がなんなのか、もう誤魔化せなくなっていることに気付いてしまったのだった。
細い肩を抱く手にびっしょりとかいた汗。ドクドクと不自然なほどに高鳴る胸。
下着を押し上げるものは、自分の穢れた欲望の権化だ。
「水樹…」
ふわりと漂う甘い香り。
普段は安心感を覚えるそれに、誠司は唇を噛んだ。
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