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3.【 j 】
忘れられる訳がない。
学生時代の下宿先のお孫さん、郁弥くん。
初めて会った時、彼は小学1年生。小柄で内気そう。色白で、茶色の瞳がキラキラしていた。両親の留守が寂しいのか、ふと気づけばスリスリと寄ってくる。
郁弥くんは他人と関わるのが好きなんだろう。他人を疑わない真っ直ぐな言動で、たまにとんでもない行動をする。
近所のガキ大将に、庭の離れを犬小屋と教え込まれたらしくて、しばらくの間は君が僕の『飼い主』だったよね。
大学から帰ると「調教開始だ」と、縄跳びとフラフープ持って立っていた。あんまりにも可愛くて、悪ノリして輪くぐりしたんだよなぁ。
田舎から出てきて慣れない環境に戸惑い、何度も挫けそうになった。
自分の向かう先を見失って泣きそうな時は、庭先の縁側に腰掛ける。すると決まって君が来るんだ。
まるで弱っていると擦り寄ってくる仔猫のように、何も言わずにぴったり隣に座って、空を見上げていたよね。
何を話す訳でもなく、誰かと座って月を眺める。
今は失ってしまった貴重な時間だ。
気弱が過ぎて卑屈になった時、隣にいるのが子供だなんて事も忘れて呟いてしまった。
「どうして君が、こんな僕なんかと……」
そしたら、君はなんて答えたか覚えてる?
『飼い主だから』って言ったんだぞ? 仔猫の分際で。思わず吹き出したら、本気で怒られた。
『同じ家でご飯食べてるから家族だろ?母屋で暮らす方が飼い主だ。寝る場所が庭にある奴のことは、メンドウみるに決まってんだろ?』って。
8つの子供が何処まで理解して話しているか測定不能だけど、家族だと思ってくれてるなんて思わなかったよ。
高学年になると、さすがに突飛ないたずらは無くなったけど、宿題を教えたりキャッチボールをしたり。
大学生の頃の僕は、君の存在に随分救われた。
行く道を見失いそうな僕の事を、甘えて頼ってくれて、家族と思ってくれて、大事な選択を迫られた時は共に夜空を見上げてくれた。あの頃の選択が正しい道に誘 ってくれたから、今の僕がある。
その後も研究を続けたくて、縁あってこの大学に身を置いている。
没頭できる環境を与えてくれていたけれど、突然降って湧いた指導者への転属の話に頭が混乱したまま入学相談ブースに座らされた。
これはカタタタキなんじゃないか?
春からどうしたらいいんだろう…
まさに、自分の向かう方向を見失って、途方に暮れているところだった。
突然、君は目の前に現れた。
背丈も伸びて、すっかり青年になっていた。
……どうしてこのタイミングで。
弱ってしまっている僕の隣に当たり前のように座った君は、あの頃より低いよく響く声で、僕に会えて嬉しいと言う。
あの頃と変わらない、人懐こい上目遣いで。
また君に逢えて、僕も本当に嬉しいよ。
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