68 / 229
第68話 二宮の説得
それでも、なかなかためらって話そうとしない榛名に痺れを切らしたのか、二宮は自分から話を切り出すことにした。
「主任のご両親は、今どうされてますか?」
「え?……実家で元気に暮らしてる……はずですけど」
母親はしょっちゅう電話をかけてくるが、父親とは実家に帰る時以外はほとんど話さない。しかし特に大病を患うこともなく、元気にしていると思う。
父は結婚と孫コールで母に攻められている息子を見て同情の目は向けてくれるものの、母が怖いのか表立った味方は一切してくれない。きっと孫の顔が見たいのは母親と同様なのだろう。
すると二宮が、暗い表情――彼はいつもほとんど同じ表情なのだが、榛名は少し違いが分かってきた――で続けた。
「そうですか。うちは母子家庭でした。兄弟は弟が一人です」
「そうなんですか。俺は姉が一人います」
二宮の母親は、女手一つで兄弟を育てて大変だっただろう。けれど、二宮のようなしっかりした長男がいれば安心だろうな、とも思う。
「……父親は不倫して、相手の女と出て行ったんです」
「えっ?」
「相手は父の会社の部下で、父より一回りも年下の女でした。父は母と俺と弟を捨てて、出て行ったあとにその女と一緒になりました」
「………」
榛名は膝の上に置いている手を、思わずぎゅっと握りしめた。
「父は典型的な仕事人間で、あまり家庭を顧みない人だったので俺は両親が離婚したことにそこまでショックを受けませんでした。けど、母と弟は泣いていました。母親は悔しくて、弟は淋しくて。……きっと弟は、俺より父に可愛がられていたからでしょうね」
「………」
淡々と話す二宮の言葉は、大声で激昂されるよりも榛名の胸の内側を突いてくる。
「不倫っていうのは、人の家庭を壊す行為ですよ。もちろん悪いのは主任だけじゃなくて、霧咲先生も相当悪いですけど……」
分かっている。昨日散々考えて考えて……その中でも一番榛名を悩ませたのは、奥さんよりも娘の存在だった。
でも、自分で想像するのと経験者――捨てられた子供の側だった二宮が言うのでは、言葉の重みが全く違った。もしも霧咲が榛名を選べば、確実に霧咲の妻と娘は不幸になるのだ。特に娘のことを考えると胸がチクチクと痛んだ。
繊細な榛名が、いつまで耐えられるのかわからない種類の痛みだ。
「そこらへんを、もう少しよく考えた方がいいです。不倫ってのが分かったばかりで混乱してると思いますけど、冷静になってください。うちの親父は相手の女を選びましたけど、霧咲先生は分かりませんから。そうなったら、泣くのは主任なんですよ?」
「………っ」
二宮は本気で榛名を心配してくれている。榛名はまた色々な感情が綯い交ぜになって、目に涙を滲ませた。
「……心配してくださって、有難うございます二宮さん。でも、大丈夫です」
「大丈夫って、主任!」
(だって大丈夫、なんだ)
「お父さんが男に取られて、泣く子はいないですから」
「えっ?」
「俺……振られること決定してるんです。だから、それまでは好きでいようと思ってて……」
カウントダウンは、あと三日。明日霧咲が関西に出張に行って、多分帰ってくるであろう次の日の夜。その日は世間のクリスマスとは一日だけずれた、榛名たちだけのクリスマスの日。
きっとその日、榛名は別れを告げられる。可愛い娘と天秤に掛けられて、自分が選ばれるだなんてこれっぽっちも思っていない。価値が違うのだから。
「それくらい、いいですよね?俺の方から物分り良く別れたくないんです。どうしようもないくらい、あの人のことが好き……だから………」
もう二宮の前では散々カッコ悪いところを見せていたので、榛名の感覚は少し麻痺していた。膝を抱えたまま、こぼれる涙を隠そうともしない。
「そうなんですか……俺、えらそうに説教してすみません」
「いえ、当然です。でも俺を止めてくれてありがとうございます。嬉しいです」
ひとりぼっちで、深い沼の底へ沈んでいくのだと思ってた。けれど、そこに行く寸前で二宮が自分の手を引いてくれた。
そのまま素直に浮上するわけじゃないにしても、その行為は素直に嬉しかった。こうやって話すだけでも、霧咲に捨てられる恐怖が薄らいでいく気がするから。気のせいでも、なんだか呼吸が少し楽になった気がした。
二宮は、榛名にスッとティッシュ箱を差し出した。榛名はそれを受け取り、涙を拭いて鼻をかむ。
「ありがとうございます。今からこんなに泣いちゃって、実際にフラれたときどうなるんでしょうね、俺……」
榛名は少し笑って言ったが、二宮は全く笑わなかった。
「主任のことだから無いとは思いますけど、手首切ったりしないでくださいよ」
「はは、そこまで繊細じゃないよ」
手首を切るなんて、思春期の少女のように周囲に心配をかけるだけの行為はしない。自ら死のうだなんて……考えたこともない。
これは、職業が多いに関係していると思う。どれだけ本人があがいたって、どんなにこちらが手を尽くしたって、人間死ぬときはあっさりと死ぬのだ。そんな場面を何度も見てきたので、榛名は自死するイメージだけはない。しかし、それは今まで死にたいと考えるほど自分に辛い経験がなかったからなのかもしれない。
「本気で心配ですよ。……あの俺、結構いつも暇してるんで、いつでも呼んで下さい。一人でいたら辛いと思いますんで……えーと、酒とか付き合いますし、愚痴でも泣き言でもなんでも聞きますんで」
「……どうして二宮さん、俺にそんなに優しくしてくれるんですか?」
音を立てて鼻をかみながら、榛名は二宮に聞いた。すると二宮はどこか神妙な顔をして黙った。
「………」
「二宮さん?」
何気なく聞いた質問だったのに、なんだか二宮の様子がおかしい。
「……どうしてでしょうね。俺にもよくわかりません。けど、なんかほっとけないんですよ、主任って」
「え……」
榛名が目を大きくして二宮を見つめると、二宮は困ったように笑った。
「理由はそれだけです」
榛名が返事をする前に、二宮はすっと立ち上がった。
「じゃあ、俺はそろそろ帰りますね。長いことお邪魔してすみませんでした。……あと主任、少し無防備すぎです。俺は女が好きですけど、二人きりになるときはどんな男であろうと少しは警戒した方がいいですよ。男はみんな狼なんですから」
「あの、俺も一応男なんですけど……」
「主任は羊の側ですよ、間違いなく」
「えぇ……?」
二宮が見送りは玄関まででいいというので、榛名は玄関で二宮を見送ることにした。そして二宮が部屋を出る前に、先ほど言いそびれたことを言った。
「あの、二宮さん」
「なんですか?」
二宮は座って靴紐を結びながら返事をする。榛名はそんな二宮の後頭部を見下ろしながら言った。
「俺……別に男が好きなわけじゃないですよ。霧咲さんだから、好きなんです」
二宮は少し驚いた顔で榛名を振り向いたが、ふっと笑って「なんだか、霧咲先生が羨ましいです」と言った。
その言葉は二宮の本心から出たもので、何か深い意味があるわけではない。榛名は返事はせずに二宮を見送った。
ともだちにシェアしよう!