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第69話 葛藤とミス

榛名は二宮が帰ったその日の夜、久しぶりに自慰をした。霧咲の声、霧咲の身体、霧咲の愛撫を思い出しながら、日付が変わって自然に眠くなるまで何度でも耽った。 「はぁ、あっ……きりさきさ、きりさきさんっ……!」 ほぼ一日引きこもっていて、食事もろくに摂っていない。しかしそんなことは関係ないとばかりに榛名の性器は何度でも勃起し、何度も達した。 『……暁哉……』 たとえば、名前を呼ばれたことを思い出すだけでいい。たったそれだけで、榛名は何度でも身体を熱くさせることができた。 こんな身体になってしまったのに、霧咲から離れるなんて……本当にできるのだろうか。 (霧咲さん……貴方は今、何をしてる?何を考えてる?俺のこと手放すのが惜しいとか、少しは思ってくれてるのかな……) 家族がいたっていい。二番目でも、愛人でもいいから。それでも傍に置いてほしいと泣いて縋ったら、もしかしたらこれからも一緒に居られるだろうか……。 「はっ、……あぁっ!」 でも。 (嫌だ……やっぱり二番目なんて、愛人なんて嫌だ……!) 霧咲を、霧咲の家族から奪ってしまいたい。そして誰も自分たちを知らない土地に行きたい。 でもそんなことが自分にできるのか?自分の醜いエゴで、かよわい女性から夫を――幼い子供から父親を奪うという非道なことが……。 『不倫ってのは、相手の家庭を壊すことですよ』 ほとんど薄まった体液を手の中に吐き出しながら、同時に涙も溢れてくる。精液は出なくなるのに、どれだけ泣けば涙は枯れるのだろう。 「霧咲さん……俺はいったいこの先、どうしたらいいんですか……」 その答えは分かりきっている。けど、分かりたくない。 (離れたくなんか……ない) そうして気が付いたら、朝になっていた。 * 「榛名主任、本当にもう仕事来ても 大丈夫なんですかぁ?もっと休んでもよかったですぅ」 朝の申し送りが終わったあと、有坂が榛名に言った。近くに立っていた若葉も榛名のところへ来た。 「本当、主任が霧咲先生の回診の日に休むなんてよっぽど体調悪かったんでしょ?無理しないでいいんですからね」 見渡せば、他のスタッフも心配そうな顔をしていた。仮病……とも言えないがほぼ仮病だったのに、そんなに心配されると少し心苦しい。 けれど、嬉しいことに変わりはなかった。 「ありがとう有坂さん。それに若葉さんも、今日はリーダー変わってもらっちゃって」 「だって病み上がりでリーダーとかしんどいじゃないですか。それにリーダーだと途中で帰れなくなっちゃいますしねぇ、元気になったら私のリーダー1回あげますね!」 若葉はにんまり笑って言う。榛名が気を使わないような配慮だ。 「了解。でも帰らないよ、もうすっかり元気だから 「主任その顔で元気って、元気の使い方間違ってますぅ」 「ハハ……」 顔色が悪いのは、あまり寝ていないせいだろうか。でもフラフラしたりはしない。昨日休んだ分、今日はしっかりと働かなければ。 時刻は8時30分。 「じゃあそろそろ開けますよー。おはようございまーす!」 時間きっかりに透析室のドアを開け、患者が体重計の前に一列に並びだす。透析室の一日の始まり、穿刺の時間だ。 * 「すみません、横井さん……」 「珍しいですねぇ、榛名さんが穿刺に失敗するなんて」 「ホントすみません……」 穿刺困難な血管をもつ横井氏の穿刺を行ったところ、深く入り過ぎたのか血管が動いたのか、榛名はミスしてしまった。 一度ギリギリまで針を引き抜いて再び血管を探るが、横井氏が痛みで顔を歪めたため、謝りながら針を抜いた。そして、溢れる血をガーゼで抑えて圧迫止血を行った。 普通の採血の穿刺ミスとは違い、透析用の針でミスをすると、止血に時間がかかる。針が太い上、動脈とつながっているシャントに刺すからだ。しかも透析患者は透析中に、ヘパリンや低分子ヘパリンなどの抗凝固剤を使用するために、普通の人間よりも血の止まりが悪い。そうなると再穿刺も遅くなり、開始も回収も連動して遅れてしまうため、患者は不服な顔をする。 もちろん、何度も痛い思いをするのが嫌だというのもあるのだが、早く帰れないことを嫌がられる方が多い。 横井氏は榛名を責めたりはしない。新人の有坂が失敗しても怒らないのだから当然といえば当然なのだが、それでも榛名の腕を信じて安心していただろうから、申し訳ない気持ちは半端じゃない。 「本当にすみませんでした」 「大丈夫だって~、どうせ早く帰っても暇なんだからさ」 榛名は横井氏に苦笑を返しながら、止血を続けた。意外と血が止まるのは早かったものの、榛名は続けて二回穿刺する勇気がどうにもなかった。ミスをしたときはなるべく自分でもう一度刺してなんとかしようとするのだが、それが成功するのはその日のコンディションにもよるものが大きい。 誰かに代わってもらおう……と腰を上げようとしたら、後ろから声を掛けられた。 「榛名君、ちょっとそこ変わって」 「え?堂島君……」 「俺が、穿刺すっから」 後ろから声を掛けてきたのは堂島だった。何故か少し照れたような顔をしている。先月の飲み会では色々とあったが、ほぼ毎日顔を合わせるため――積極的に絡みはしないものの――わだかまりはもうほとんどなくなっていた。 「ありがとう……」 「昼休み、ジュース一本奢ってね!」 「えっと、二宮さん呼んでくるね」 「わー!冗談だってば!!二宮先輩呼ぶのはやめて!」 榛名は堂島の補助に回り、堂島は榛名が失敗した針穴の少し上から刺して、見事一発で成功させた。榛名が失敗したのはV側の血管だったので、その後A側の血管もサッと穿刺した。榛名は針に繋げる回路を1本ずつ堂島に渡し、コンソールの操作に移った。 脱血開始のボタンを押して、ヘパリンを初回量1000単位注入する。そして透析開始のボタンを押し――透析が開始された。 「8時45分開始です、終了は12時45分、開始時の血圧は145と70です」 榛名は横井氏に説明しながらさらさらと記録を書いていく。書き終わると再び横井氏のそばに行き、穿刺ミスのことを謝った。 もう謝らないでくださいと言われて、ぺこりを頭を下げると次の患者のところへ行くべく、立ち上がった。

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