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第74話 出来心からの、問題発言
榛名が家を出てもう10年経つので、さすがに部屋は出た時のまま……ではなかった。物置のようにもなってはいるが、帰省した時のためにベッドとその周囲だけは片付けてもらっている。毎回荷物も少なくていいように下着や部屋着も置いているので、着の身着のままで帰ってきた今回のような場合でも、特に困ることはなかった。
榛名は押入れに仕舞われていた布団を引っ張り出し、母に用意してもらったシーツでベッドメイクをしたあとごろんと横になって携帯を見た。携帯には霧咲からの着信が二件も入っていた。そういえば、もう日付が変わっている。今日は世間ではクリスマスイヴらしいが、全然そんな気がしない。
霧咲の秘密を知らなければ、自分も多少ワクワクした気持ちで今日を迎えることができたのだろうか。イヴもクリスマスも一緒には過ごせないけれど、一日遅れてケーキを食べ、それらしいことをして過ごすのだと……
すると突然携帯が震え出して、霧咲からの着信を知らせていた。榛名はむくりと起き上がると、タップして電話に出た。何故か、気持ちは妙に落ち着いている。
『もしもし、榛名?』
「こんばんは。さっき携帯見ました、何度も掛けさせてすみません』
『ううん、俺はもうホテルで暇してるから。……お父さんの容態は、大丈夫だった?』
霧咲がとても心配そうな声で聞いてきた。榛名がなかなか電話に出ないので、ますます心配になったのかもしれない。榛名は申し訳なく思いながら、今回の顛末を霧咲に語った。
「……そんなわけで、ご心配おかけしました」
『そっか、まあなんともない……わけじゃないけど、大事に至らなくて良かったよ。じゃあ透析導入にならないよう、息子の君からもしっかりと生活指導してあげないとね』
「説教はしたんですけどね。でも俺からの指導なんて、ちゃんと聞くんでしょうか」
『そこは腕の見せ所だろ?看護師さん』
「家族に対しては別ですよ」
ふふ、と軽く笑った。何故か霧咲の声を聴いても、下手に動揺しなくなっている。既婚だったという事実はなんとか受け止められたものの、やはりショックが大きすぎて感情が一部麻痺してしまっているのだろうか。それでも霧咲のことは未だに好きでたまらないのだから、困ったものだ。
(なんか悔しいから、少し驚かせてみようかな……)
そう思ったのは、ただの出来心だった。
「あの、霧咲さん」
『何?なんだか楽しそうだね』
本当だ。なんで自分は笑っているんだろう。霧咲の声が聞けて嬉しいから?……違う。これはそんな甘ったるい感情じゃない。異様にドス黒くて、残酷な感情だ。霧咲のことを驚かせて傷付けるのが楽しい、みたいな――。
「俺ね、明日お見合いするんですよ」
榛名は、なんでもないことのように言った。今日の晩御飯のことでも話すように。
たっぷり時間を置いたあと、霧咲は聞き返した。
『……え?』
「驚きました?」
『驚いたっていうか……何の冗談だい?』
霧咲の機嫌が悪くなったのは、声ですぐに分かった。けれど、全く恐くない。一人で泥沼に沈んでいきそうだった時間のことを考えたら、他に恐いものなんか何もなかった。
「冗談なんかじゃないですよ」
『は?』
(冗談、なんだけどね)
母が勝手に用意した見合い相手と会う気などない。けれど今は『冗談でした~』と否定して、霧咲を安心させる気には全くならなかった。ただ霧咲を傷付けたい。自分がそうされたように。
(……俺に言われたからってそんなにダメージは受けないんだろうけど。でも俺の百分の一くらい、貴方も傷つけばいいんだ……)
携帯から、『はぁ』と呆れたような溜め息が聞こえた。
『君はそういう笑えない冗談を言うような悪趣味な趣向は持ち合わせていないと思っていたんだけど……』
「それ、貴方が俺に言うの?」
榛名は更に霧咲を煽るような言い方でそう言った。それもやはりどこか楽しそうな口調で。
多分、もう自分は破綻してしまっているのだ。壊れてしまっている。
『……暁哉、きみは何を言ってるんだ?どうした、何があった?』
ようやく霧咲の声に少し焦りが見えた。榛名の様子が明らかにおかしいことにやっと気付いたのだろう。そもそも榛名は笑えない冗談を言う男ではない。それは霧咲が今までさんざん榛名のことを『君は本当にマジメだね』とからかい、一番知っているはずだった。
(ああ……)
榛名は、震える声で言った。
「自分は結婚して子供までいるくせに、わざわざ俺に近付いた目的は何ですか?何ひとつ疑いもせずに貴方に溺れていく俺を見てるのは楽しかった?俺が誰かと結婚してこどもを作って貴方と同じ事をしたら、俺と同じように傷ついてくれますか?」
(止まら、ない……)
『暁哉!君はさっきから何を言ってるんだ!?俺が結婚してるだって!?』
「……嘘吐き」
突然プツンと通話が途切れた。どうやら榛名の携帯の充電が切れたらしい。
「あははっ……」
切れてくれて、よかった。でないと、情けない泣き声まで聞かれてしまうところだった。
「ははっ……!ふ……っ……ぅうっ……!」
自分から別れを告げる気なんて最初はなかったけど……やはりその時をおとなしく待ってるのは辛すぎた。それならもういっそ、自分で壊してしまった方がいい。
というか、もう黙っていることなんて出来ないのだ。いま霧咲の顔を見たら、きっとその場で周りを気にせず泣いてしまう。
「うぁっ……ひっ……ぅ……!」
枕に顔をうずめて、声を押し殺して泣いた。両親の部屋が二つ隣で良かった。いい歳をした息子が泣いてるなんて、母に知れたらそれこそ恥ずかしくて死ぬ。
「きりさきさっ……、きりさきさん……っ……ぅっ……」
霧咲を忘れるのにかかる年月は、一体どれくらいなのだろう。途方もないように思える時間に絶望して、榛名は泣き続けた。
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