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第75話 霧咲の後悔

 榛名の様子がなんとなくおかしいということは、霧咲は二日前から感じていた。それは榛名がK大に来た日であり、看護師の朝井に嫌味を言われたであろう日。  夜に亜衣乃を預けられたため会いに行くことはできなかったのだが、やはり顔くらい見に行けばよかった、と今更ながら後悔している。  ノロかもしれないと言われたので亜衣乃を連れて行くことはできないが、夜中亜衣乃が寝てしまったあとにこっそりと会いに行けばよかったのだ。何故自分はあの日、もっと彼を気遣ってやれなかったのだろう。朝井を怒って榛名をフォローすれば、それでその問題は全部解決したと思っていたのだ。  まさか自分が結婚しているという嘘を吹き込まれていたなんて……。 「……クソッ」  それからは何度掛けても、榛名の携帯は繋がらなかった。きっと充電が切れたのだろう。そして榛名が今夜携帯を充電することは考えられなかった。失礼だが榛名の親世代がスマートフォンを持っているとは思えなかったし、持っていたとしても霧咲から電話が来ると分かっていて充電はしないだろうと思ったのだ。霧咲は下唇をぎりっと噛んで、これからどうしたら良いのか最善の方法を考えることにした。  ……そもそも、自分が一番悪いのだ。霧咲は、まずはそこを認めなければいけない。  以前に蓉子と亜衣乃が透析室に来た時、そこに居合わせた医学生に『奥さんと娘さんですか?』と聞かれた。その時は正直に妹と姪だと答えた。何故わざわざ妹と姪がわざわざ職場に会いに来るのかまでは追及されなかったが、彼は後日、こう言ってきた。 『朝井さんが、あの時霧咲先生に会いに来てた二人は何者だってしつこく聞いてくるから、ご想像の通りですよって言っちゃいました。霧咲先生、朝井さんにしつこく言い寄られて困ってましたし、いいですよね?嘘をついたわけじゃありませんし……彼女、これで少しは大人しくなるといいですね』  彼は霧咲のことを思って、本当のことを朝井に教えなかったらしいのだ。勿論、他の看護師にも。確かにしつこく言い寄ってくる朝井には霧咲も対応に困っていたし、彼の言うとおり嘘をついたわけでもない。それで少しは周りが大人しくなるのだったら……とリスクよりメリットの方を取り、『別に構わないよ』と言った。  そんなわけで、霧咲は真実をスタッフに教えることを放棄したのだ。仕事とは関係ないし、至極どうでもいいことだと思った。  でもまさかどうでもいいと思っていた噂が、巡り巡って自分の愛しい恋人の耳に届くなど、誰が想像するだろう。しかし仮にそんな噂が榛名の耳に入ろうとも、最初から霧咲が真実を教えておけばよかったのだ。  両親が既に亡くなっていること。自分には妹がいること。そして妹は離婚しており、幼い娘が一人いること。その娘は、霧咲のかつての恋人が自分と一緒に居るために妹を騙して、孕ませた存在であることを……。  『子供ができたから、蓉子ちゃんと結婚する』  彼にそう宣言されるまで、妹と二股を掛けられていたのを霧咲は全く気付いていなかった。その後彼とはすぐに別れたが、蓉子は彼の浮気を疑って探偵に調査を依頼し、その結果彼と霧咲の関係が家族にバレて、離婚騒動に発展した。  霧咲は両親には勘当され、死に目にも会えず、妹には恨まれ、自分も彼を恨んでその後の10年間を孤独に生きてきた。  全部洗いざらい、榛名に話せば良かったのだ。  自分は榛名の全てを知りたがり、彼を束縛しているのにも関わらず、霧咲は自分の家族の話などしたことがないし、部屋に呼んだことすらない。それで榛名がうっすらと不安がっていることは、なんとなく気付いていたのに……。  今の事態を招いたのは、全て自分の弱さが原因だった。 (なんてことだ……)  あの日榛名は、どれだけ傷付いたことだろう。あの呆れるほど泣き虫で繊細な恋人は、一体どれほど多くの涙を流したのだろう。何度電話を掛けても携帯に出なかったのは、泣いていたからなのだろうか。 『見舞いには絶対に来ないでくださいね』  電話で済むことをわざわざメールで伝えてきたのは、自分の声が聴きたくなかったからか。 『榛名主任は今日、お休みなんですぅ』  あの真面目な男が仕事を休んだのは、自分に会いたくなかったからか。そして、 『貴方の未来まで、全部俺にください。他のものはなんにもいらないから』  あんなことを言ってきたのは、自分に捨てられるとでも思っていたからか。そう言った時の榛名の心境を考えると、胸が潰れそうに痛い。本当は具合が悪かったのではなくて、単に泣くのを我慢していたのだと思うと……。 「本当に、君は……」  健気どころの話じゃない。まるで自分が犯罪者かと思えるくらい悪い男だと思った。しかし同時にこみ上げてくるこの想いは……歓喜だった。  自分が結婚していて、子供までいると勘違いしているのに。それでも榛名はすぐに『俺たち、もう別れましょう』とは言ってこなかった。すぐにそう言ってきたら、霧咲もその時点で真実を話して全ての誤解は解けたはずだった。なのに、何も言ってこなかったということは。  榛名は悩んで、悩んで、悩んで……結果、不倫でも自分とは別れない、という選択をしたということだ。 『貴方の未来まで、全部俺にください』  今思えば、とても彼らしくない言葉だった。それは霧咲がすべてを榛名に打ち明けた後に言おうと思っていた言葉であり、つまり……プロポーズだった。しかし榛名が本当に自分と同じ気持ちでその言葉を言っているのかが分からなくて、その時は深く追求はせずに意味深な返事を返してしまったのだが。 (でも、同じ気持ちではない、か)  榛名はプロポーズとして言ったわけではない。本当にその言葉通り、ずっと霧咲と一緒にいたいという素直な欲求をそのまま言ったのだ。そんな未来はかなわないと分かっていて、それでも勇気を出して言ってくれていたのだとしたら……  喜んだらいけない。榛名を死ぬほど泣かせて、悩ませておいて、喜んでなどいけないのに。 「暁哉……」  今すぐ彼に会って、抱きしめたい。唇が腫れるくらいキスを繰り返して、『好きだ、君だけを愛してる』と飽きるほど囁きたい。どろどろに甘いセックスをして、一人で流した涙よりも多くの悦びの涙を流させたい。――しかし。 『明日、お見合いするんです』  どうやら事態はもう笑えないところまで進んでいるらしい。本当に喜んでいる場合じゃない。喜ぶのは……そう、彼の笑顔をこの目で確認してからだ。  もう日付は変わっているが、今日はクリスマス・イヴ。そして二日続けて行われる透析学会の二日目であり、この学会に参加するためにわざわざ東京から大阪にまで来ている。しかし、彼と天秤に掛けるほど有意義なモノではない。  霧咲はホテルの部屋に備え付けられているパソコンを立ち上げると、明日の朝一番の宮崎行きの飛行機の便を探し始めた。

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