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第158話 榛名、霧咲に至れり尽くせりされる
ふたたび浴衣に着替えた榛名が掘りごたつのスペースに赴くと、もう卓上にはお酒とぐい呑み、少しのおつまみが用意されてあった。こたつも電源が入り温まっている。これらはすべて、霧咲が温泉に来る前に用意したらしかった。
「すいません!俺、上がったあとに用意しようと思ってて……」
「別に構わないよ。言っただろ?今日君は接待される側なんだって」
「で、でも」
「いいかい、暁哉。今日だけじゃなくてね、俺は休日はゴロゴロしてばかりで奥さんに家事の全てをやらせるようなダメな夫じゃないんだよ」
霧咲は何やら真剣な顔で榛名にそう言った。それを聞いて、榛名はピンと来た。
「はあ……そんなこと思ってないですけど。主婦向けのワイドショーでも見ました?熟年離婚特集的な」
「ちょっとだけね」
「はは……やっぱり」
まだ結婚すらしてないのに、既に離婚されることを考えているなんて、霧咲はどれだけ先を見ているのだろう。自分はまだ、霧咲と結婚することにすら自信を持てていないというのに。
「さ、大人の時間だ。飲み直そう」
「ていうかまだ21時半だったんですね、亜衣乃ちゃん寝るの早いな……こんなもんですか」
「そうだよ、基本子どもは21時就寝だ。さ、お酒を注ぐからぐい呑み持って」
「じゃ、俺にも注がせて下さいね」
交互に酒を注ぎあって、2人は乾杯した。
「そういえば、このおつまみ達は……」
「食後に頼んでたよ」
「本当に用意周到ですね……」
「褒めてくれるかい?」
「ええ。素晴らしい旦那様で幸せですよ」
榛名は余計な不安を悟られないように、にっこりと笑ってみせた。
2人はやや暗めの照明の下で、ゆっくりと日本酒とおつまみを消費しながら、他愛のない会話を繰り返していた。
「ねえ誠人さん、俺誠人さんのお友達さんに一度会ってみたいんですけど」
「奴に?何で?」
「話を聞いてみたいんです。俺と会う前の誠人さんのこととか、友達から見た誠人さんはどんな感じなのかな、とか」
「そんなの知る必要ないな。あいつはきっと君に余計なことしか吹き込まないし」
「その余計なことが知りたいんですって」
「えぇ……厄介だなぁ」
心底嫌そうな顔をする霧咲を見て、榛名はクスクスと笑う。なんだか可愛いと思ったのだ。
「そうだね……じゃあ、君も俺を郁 さんに会わせてくれるならいいよ。噂の女装写真も恥ずかしがらずに見せてくれるのを条件としよう」
「えぇ!?なんですかそれ、会わすのはいいですけど写真は勘弁してくださいよ!それになんか俺の方が不利っぽい条件じゃないですか」
「俺があいつを君に会わすのは、今の君と同じくらい嫌ってことだよ」
「男友達なのに?……あ~分かった!酔っ払って何か間違いでも起こしたんでしょう。だから俺と会わせたくないんですね?」
榛名はだいぶ酔いが回ってるようで、普段は言わないような軽口を笑いながら平気で叩いている。霧咲はギョッとした顔で反論した。
「気持ち悪いことを言わないでくれよ、あいつと間違いを起こすくらいなら死んだ方がマシだ」
「どうだか~。蓉子さん、誠人さんのこと面食いだって言ってましたもんね!きっとそのお友達さんも中原さんみたいに並外れた美形に違いないです……ね……」
旅行中でテンションが高く、普段よりもひどく酔っ払っていたとしても――自分がとんでもない失言をしてしまったことは、まだ理解できる程度の酔いだった。
だから榛名は、思わず自分の口を押さえた。
「暁哉?」
「あ……その、俺……っ」
さっき家族風呂で霧咲に抱かれた時、ついその存在を思い出してしまっていた。自分よりも霧咲に相応しいんじゃないかとまだ心のどこかで思っている、亜衣乃の本当の父親である霧咲の昔の恋人のことを。
忘れたはずだったのに、酒を飲んで無意識に思い出してしまうなんて。
「君は、何を」
「ご、ごめんなさいっ、俺、トイレ!」
「暁哉!」
霧咲の自分を呼ぶ声から逃げるように、榛名は掘りごたつから脱出しようとした。けれどやはり掘りごたつからは直ぐに出られず、同じように立ち上がった霧咲に腕を掴まれた。
「暁哉、座って」
「離してください……!」
酔っぱらっているとはいえ、なんてことを言ってしまったのだろう。霧咲だって思い出したくないはずなのに。
恐くて顔が上げれない。
霧咲の顔が見れない。
「いいから座るんだ。騒いだら亜衣乃が起きてしまうよ」
「………」
それを言われたら、おとなしく従うしかない。思わず御簾ごしに亜衣乃の方へ目をやるが、規則正しく寝息を立てていた。思わずホッと胸を撫で下ろす。
……絶対、亜衣乃には聞かせたくない台詞だったから。
「暁哉、俺がそっちへ行くから少し詰めてくれないか?」
「え!?」
榛名がぼんやりしてる間に霧咲はさっと立ち上がり、榛名の横に入ろうとしてきた。とりあえず言う通りに場所は空けたものの、榛名はまだ霧咲の顔を見ることは出来ない。
そして、こたつに入ると――霧咲は少し強ばっていた榛名の身体をギュッと抱きしめた。
「!誠人さ――」
「馬鹿だなぁ君は。まだあいつのことを気にしていたの?あいつと君は全然違うんだってちゃんと言っただろう」
優しい声で霧咲が言い、抱きしめながら同時に榛名の頭もよしよしと撫でた。
「……そう、でしたね」
確かに霧咲はそう言った。
自分も納得したつもりだった。
けれど……
「ごめんなさい……俺が、弱いだけなんです」
頭では納得していても、心は納得していない。否、無理矢理納得させていた。
けれど、やはりそう簡単に納得するなんて所詮無理だったのだ。榛名が霧咲からその話を聞かされたのは、まだつい最近のことなのだから。
その後も思うことは色々あったのだが、愚痴すら誰にも言えずに一人で抱え込んで、日々の忙しさでなんとか誤魔化していたのだ。
「ごめんなさい……俺、貴方にこんなにも愛されてるんだって分かってるのに……」
優しく抱きしめられると思わず涙腺が緩み、ポロポロと零れて霧咲の浴衣に染み込んでいく。――すると。
「いや、君は何も悪くないよ。気付いてやれなかった俺が悪いんだ……ごめん。言葉が足りてなかったと思う」
「………」
「言葉というか、アフターケアって言うのかな?俺は自分のことばかりで……君が俺の全てを受け入れてくれるから、年下の君に甘えてばかりだった」
甘えていいのに。
今まで元恋人と妹との板挟みで辛かった分、霧咲は全然自分に甘えていいのだ。どうしようもない位に嫉妬してしまうのは、きっと自分の許容範囲が狭いだけなのだから。
自分にも言いたくない過去はあるくせに。霧咲の過去まで、否、過去の霧咲まで自分のものにしてしまいたいと榛名は思っているのだ。
そんなことは、絶対に無理なのに。
「……ごめんなさい……」
「謝らないで。君は悪くないんだから」
「ごめんなさいっ……」
自分が初めて愛した人が霧咲だったから、霧咲が初めて愛した相手も自分だったら良かったのに。榛名はそんな傲慢な気持ちを抱いていることに、謝罪をしているのだった。
もし過去がそんなふうに書き換えれたら、亜衣乃はここにはいないのに。
「暁哉……愛してるよ」
「う……っ」
「今は君だけを愛してる。これからもずっと……だよ」
「誠人さん……」
なるべく声を出さないように。
亜衣乃に泣いていると気付かれないように、榛名は霧咲の胸にギュッと縋り付いて、静かに涙を流した。
霧咲も『泣かないで』とは言わなかった。その代わり、榛名が泣き止むまでずっと優しく抱きしめて『愛してる』と囁いていた。
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