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⑩
結局二宮は堂島に手を出さず、泊まらず、大人しく自宅へ帰った。帰ったら山下に連絡をしないといけないことが憂鬱だが、結婚式前の方がよほど憂鬱で、今は食事が喉を通らないとかそんなことは全くない。
――そういえば、さっき。
『ていうか二宮先輩、首どうしたんですか? 湿布なんか貼って』
『あ、剥がすの忘れてた。――明日からどう言い訳すっかな、コレ』
『え?』
ぺりぺりと湿布を剥がしてその下の皮膚を見せてやれば、堂島は赤くなったあとにサーッと蒼褪めた。
『ちょ、え、これ、俺が……?』
『お前しかいねぇだろうが』
『いや待って待って待って! わざとじゃないです!!』
『別に怒ってねぇって。でも明日も寝違えましたじゃ不自然だろ?』
それかもう、開き直って痕が消えるまで毎回『寝違えた』と言い張るか。周囲には嘘だとバレバレだろうが、実際に痕を見られながら仕事をするよりかはいい気がする。
もし自分が当事者じゃなかったら、そんな痕を見せられて仕事をするのはこっちが落ち着かないと思う。
『ち、ちなみにそれは自分で貼ったんですよね……?』
『いや、榛名さんが貼ってくれた。朝ロッカーで指摘してくれたのも榛名さんだしな』
『ッア――!! よりにもよって榛名君かぁぁ~ッッ!!」
『なんだよ、別にいいだろ……むしろ他の人よりも全然。すっげえ情熱的な彼女がいるって勘違いされたけど』
『なんだよそれ、もぉぉ~!! なんか嫌だそれ~!!』
『じゃあ堂島が付けたんですって正直に言うか……』
『それはもっと嫌だぁ~~!!』
何故堂島がそんなに榛名に知られたことが嫌なのか、二宮にはよく分からないが、きっと照れているのだと思うことにした。
『ちなみに技士長にもバレた』
『なんでですか!?』
『多分だけど……寝違えたって言い訳したら、まだまだ若いねって返ってきたからな。完璧にバレてるだろ?』
『それはバレてますね。……つーかマジで明日からどぉすんですか?』
二宮はさっき考えた案を堂島に伝えた。かなり嫌がられたが他に方法が無いので仕方ない。痕を付けた本人だが、実際に恥をかくのは二宮だけなのに何故そんなに堂島が恥ずかしがるのかよく分からなかった。
運転中に信号待ちをしていると、突然スマホが震えた。ちらりと確認すると、それは山下からの着信だった。
もうすぐ家だが、電話まで無視をしたら逆上するかもしれないので二宮は近くのコンビニの駐車場に車を停めた。
「もしもし」
『あっ、二宮君? 山下だけど。電話出てくれてよかったー、これで出てくれなかったらもう仁科に言っちゃうところだったよ。もう文章は打ってあるからさ。ねえ、なんでメッセージの返信くれないの?』
「……今、仕事帰りなんだ。悪い」
『随分遅くまで仕事してるんだね、彼氏のとこ寄ってたんじゃないんだ?』
山下の声は妙に明るい。二宮は電話の向こうの山下に気付かれないよう、静かに溜め息を吐いた。
「山下、あのな……」
『それで、いつ会うか決めた? 僕はいつでもいいよ、二宮君に合わせるから』
「山下、俺は」
『次の休みっていつ? 休み前の仕事終わりに会おうよ。二宮君は独身なんだからいつだって行けるよね? 楽しみだなぁ』
「だから人の話を聞け! 俺はお前と寝るつもりはないからな」
二宮は再びハッキリと断った。
――何度誘われても、何度だって断ってやる。そう、心に強く決めて。
『……そんなこと言っちゃっていいの?』
「仁科に言いたければさっさと言え。坂口にも、大学の連中にも好きなだけ言えばいい。事実なんだ、俺はもう逃げも隠れもしない」
『……………』
もう少し柔らかい言い回しをすれば良かったかと思ったが、山下が周囲に話せばどんな態度を取ろうと同じことだ。長年の友人は失くすかもしれないが、今二宮が一番大切にしているのは堂島だから別にいい。
それにきっと、二宮が同性と付き合ってることを知っても坂口は友達を続けてくれる気がする。坂口は二宮が山下にやらかしたことを二宮本人にも知らせずに、ずっと何年も胸の内に抱えていてくれたのだから。
――今回山下に言われなくても、いずれ自分の口で告白しようと思う。
仁科は山下の友達だから、山下にひどいことをした二宮とは縁を切るかもしれないが……
『……本当に、それでいいんだね?』
「いい」
『……っ!』
二宮の言葉には一切の迷いがない。さすがに山下も戸惑っているのか、言葉に詰まっている。数十秒ほど沈黙が続き、二宮から口を開いた。
「……山下、お前は引っ込みが付かなくなっているだけじゃないのか? 俺が言えた立場じゃないけど、もうこんなことは……」
『嫌だ!!』
「!」
電話の向こうで山下の嗚咽が聞こえて、二宮は思わず生唾を飲み込んだ。
『ぼくは……僕はずっと二宮君が好きだった。何度も忘れようとしたんだよ? だって二宮君はノンケだと思い込んでたし、僕を抱いたこともまったく覚えていないし、唯一あのことを話した坂口君にも二宮は無理だって言われたから……。でも、今少しでもチャンスがあるならもう逃がしたくない……!』
山下の自分本位な言葉に二宮はカチンときて、つい説教じみたことを言ってしまった。
「でもお前はもう結婚して子供もいるんだろ、奥さんを愛してないのかもしれないけど、選んだのはお前自身だろうが! 周囲のせいにばかりしないで、……浮気なんかしないで責任を持って家族を守れよ!」
『綺麗ごとを言わないでよ!! そんなこと言える立場じゃないくせに!!』
「っ……」
痛いところを突かれ、今度は二宮が黙った。
『……僕は諦めないよ。もしあのとき二宮君と付き合えてたら、僕はきっと君を一番に選んでた! 親に何を言われても君と一緒にいることを選んでた! 今だって君が僕と付き合ってくれるなら、僕は仕事も家族も簡単に捨てられるんだ!』
「――は?」
一瞬耳を疑った。でも山下は自分で言った言葉に啓示を受けたように──一転して明るい声で話し始めた。
『あ……、そっか! 二宮君は僕が既婚者ってところが引っかかってたんだね。ごめん、そりゃあお父さんのせいで人間不信になってた君が浮気の片棒なんて担ぐはずないよね……。うんうん、フェアじゃなかったよ』
「おい……おい、山下!?」
『妻と離婚する。――もう決めた』
「おい!!」
『僕が離婚したら、付き合ってくれるよね? それまでこっちからは連絡しないから』
プツッと、電話が切れた。
(これも全部、俺のせいなのか? 俺が山下を拒否したから、何も知らない妻子が夫と父親に捨てられるのか? かつての俺と母と弟のように……)
「クソッ……どうすりゃいいんだよ!」
二宮はステアリングに顔を埋めて、しばし考え込んだ。今からまた堂島のところへ戻りたかったが、余計な心配を掛けたくない。いずれ話す機会があったとしても、それは今じゃない。問題が全て解決したあとだ。
これは、二宮の問題なのだから。
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