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7、亡き番

  「……気のせい、だよな……」  翌朝、理人はシャワーを浴びながら、ぽつりとそう呟いた。  朝起きると、景はいなくなっていた。景との再会は、よくできた夢だったのではないかと思えるほど、いつもと変わらない朝だった。  だが、着替えた覚えのないパジャマや、綺麗に片付いた部屋を眺めていると、徐々に昨夜の記憶が蘇ってくる。ぼんやり霞みがかった記憶の中に、ここでひと時を過ごした景の笑顔が閃いた。  そして、景が理人にしたことも、夢うつつに……。 「……いやいや、景がそんなことするわけないし……」  ずっと会いたかった親友との再会は、孤独と疲弊で生気を失っていた理人の心を解きほぐし、久方ぶりの安らぎをもたらしてくれたものである。  美しく、そして凛々しく成長した景のことが、何だか妙に誇らしかった。語り合っていると、子どもの頃に時が戻ったような心地がして、全てを忘れることができるような気がした。この懐かしいぬくもりの中に、ずっと揺蕩っていられたら、どんなにいいだろうと。  どうしても離れがたくて、もっとここにいてほしいと訴えてみると、景はあっさりと理人の願いを叶えてくれた。そして、理人が眠りにつくまで、ずっと側に座っていてくれた。  ――でも……。  肌を撫でるくすぐったさが、深い眠りに落ちようとする理人を引き止めていた。  理人のシャツをはだけ、スラックスを引き下ろし、景は一体何をしていたのだろう。微睡みの中でうっすらと覚えているのは、景が理人の股座に顔を埋め、熱い吐息を漏らしていたこと。だがそれは、理人が見ていた夢なのか、現実なのか、はっきりと判断がつくわけではないほどに曖昧だった。 「……いやいや、夢だろ。どうして景が俺にそんなことする必要があるんだ。……夢だ夢。うん……」  だが、どうしてそんな夢を見てしまったのかと、理人はまた頭を抱えた。がしがしと頭を洗い、シャワーで勢いよく泡を流しつつ、理人はふぅ……とため息をつく。  ――……きっと、記憶が混線したけだ。ヒートの間、良知のこと考えながら一人でオナニーばっかしてたから……色々ごっちゃになっただけだろ……。  ふと、『亡き番』である高科良知のことを思い出すや、理人の胸はズキンと痛んだ。  高科は、理人よりも十八も年上のアルファで、大きな事務所を経営する敏腕弁護士だった。  ずっと仕事で忙殺されてきたため、ただ一人の相手と添いたいという想いなど、一度も感じたことがなかったらしい。  だがある日、赤信号で停車した際、横断歩道を渡る理人をたまたま目にした。そして高科は、一瞬にして理人に心を奪われたのだという。  そこはちょうど、理人の通う大学のそばだった。正門からキャンパス内に入っていく理人の背中を食い入るように見つめていると、背後からけたたましくクラクションを鳴らされたのだと、高科は笑っていた。理人に目を奪われているうちに、信号が青へと変わっていたからだ。  その頃の理人は、景を探し、待つことにすっかり諦めを感じていた頃だった。  二十一歳になり、そろそろ就職のことも考えねばならない時期で、当時の理人は色々と悩みを抱えていたものである。 『温室』で理人を見初め、面会を申し出てくるアルファはたくさんいた。みずみずしい十代のオメガの価値は高く、貰い手が一番多く現れる。理人も例に漏れず、男女問わずのアルファに声をかけられたものだった。  誰かから声がかかるたび、ひょっとすると景が会いにきてくれたのではないかと、理人は期待に胸を高鳴らせた。だがそこにいる顔は、待ちわびている相手のものではない。その度に襲いかかってくる落胆に理人は苛立ち、誘いをかけてくるアルファをつっぱね続けた。  生意気で可愛げのないオメガが好まれるはずもなく、理人はいつしか二十歳を超えていた。『温室』 内でもそこそこの古株になっていたものである。  そんな折、理人に面会を申し出てきたのが、高科だった。  がっしりとした体躯は逞しく、苦味の走った鋭い眼差しの印象的なアルファだった。 『温室』に現れた高科は、いきなり理人を名指しし、すぐにでも連れて帰りたいと申し出た。理人の感情など関係ないと言わんばかりの横柄な態度に、理人は当然、いつものように反発した。家畜やペットのような扱いを受ける気はない、と。  間に入った保護施設の職員に諭され、高科は一旦身を引いた。だがそののち、脚繁く理人の元へ訪れるようになった。高科はかなり多忙である様子だったが、仕事と仕事の合間を見て、何度も何度も理人に会いに来たのだ。  干支一回り以上に年齢差のある理人に何を話していいのか分からないと苦笑しながら、時折、花や有名な洋菓子を差し入れたりしつつ、高科はひたすらに理人のことを知りたがった。  理人の好きなもの、好きなスポーツ、好きな本、今している研究のこと、就職についての悩み……年の離れた高科を相手にしていると、まるで教師か親と面談しているような気分だったものである。  高科は、無理に理人を連れて行こうという態度は取らなかった。施設で過ごした六年間の間に、もっと強引な手段を使って仲間(オメガ)を連れ去ったアルファをたくさん見てきた理人にとって、高科の態度は物珍しいものだった。  そうして高科と過ごすうち、理人はどことなく、彼に父性のようなものを感じるようになっていた。いつどのように生き別れたかも分からぬ両親の影を、高科に重ねていたのかもしれない。  だんだん、高科と過ごす時間が当たり前になってきた。いつしか何気ない会話が増え、高科の顔を見ない日は、何だか落ち着かないような気分になった。  そして理人は、高科の番となることを選んだ。  愛や恋の甘さからは縁遠い雰囲気だが、高科となら、平穏な生活を送ることができるのではないかと思ったからだ。  このまま『温室』に居座り続けることも出来なくはない。だが『温室』の財政が見た目ほど潤沢ではないことも、そろそろ理人は分かり始めていた。  しかも理人は大学へ通っている。その学費がかなりの負担になっていることも理解していた。たまたま耳にした職員のおしゃべりで、その事実を知ったのだ。  この男と暮らせば、施設の負担にならずに済む――そういった打算的な思いがあったのは、理人の方だった。理人はそうして、高科との契約を決めたのだった。  番になるにあたって、理人は高科に条件を提示した。  それは、『子どもを作らない』ということだ。  理人は、施設で色々なものを目にしてきた。耳を疑うような親の話も、悲惨な傷跡も、たくさん見てきた。それゆえに、理人は『家族』という集団を忌避するようになっていた。仲間の中には、いずれ幸せな家庭を築きたいと夢物語のようなことを語るものもいたけれど、理人にとって、そんな未来は想像することさえ難しかった。  自分が何かひどいことをされた記憶はない。家族に関する一切の記憶がないからだ。  たとえ痛みを伴う記憶であっても、何か欠片(かけら)が欲しかった。  でも理人は何も持っていない。何ひとつ。  そんな自分が、よく知りもしない年上のアルファと、当たり前の家庭など築けるはずもない。断られるならそれでもいい――理人はそう思っていた。  だが高科は、理人の突きつけた条件をあっさりと飲んだ。  そしていつになく気恥ずかしげな表情で、高科はこう言った。 『君がそばにいてくれるのなら、それだけで十分だ』と。 「……良知……」  ぽろ……と頬を伝う涙。  失ってみて初めて、大きなものに包み込まれる安心感を知った。  高科は優しい男だった。どちらかというと顔立ちは厳しい雰囲気だったが、理人を見つめる時の眼差しは、いつだってあたたかなものだった。  守秘義務を抱える生業のためか、高科は自分がどういう仕事をしているのかということを、あまり理人には教えてくれなかった。それよりも、彼は理人の話を聞きたがったものである。  幼い頃から人一倍警戒心の強かった理人は、高科になかなか心を開けなかった。というよりも、心など開くつもりはなかった。ヒートが近くなれば抑制剤を飲み、肉体的な関わりさえも持つつもりはなかったのだ。子どもがいらないのならば、セックスなどする必要もないだろうと。  だが、一緒に暮らしているのだから、発情期のフェロモンは隠しようがない。  熱を籠らせた肉体を、高科に優しく暴かれた。  ずっと堪えていたのだろう、高科はすぐさま、理人のうなじに食らいついた。  噛まれた場所から血液を媒介して全身を巡る、濃密なアルファフェロモン。一瞬の痛みのあと、理人の身体と脳は、甘く甘く痺れ始めた。  これが『番う』ということなのかと、その強制力と吸引力を、身をもって理人は知った。  これまであまり意識したこともなかったオメガの本能が、高科の全てを欲していた。快楽と愛情を求めて、求めて、理人は狂ったように高科と交わった。  普段は穏やかな高科の見せる獣性、濃密な愛撫、そして気を失ってしまいそうになるほどに、甘い絶頂。これまでずっと、一人で慰めていた肉体を深く深く愛されて、理人は歓びのあまり涙を流した。  だが、ヒートが去ってゆくと、そんな風に乱れてしまった自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、いつも以上に高科につらくあたってしまうのだ。自分の身体が制御不能になってしまった恐ろしさや、自分が自分ではなくなってしまったような不気味さに、苛立ちを隠しきれなかった。  だが高科は、そんな理人のことを受け入れて、いつだって肯定してくれた。  そんな高科のことならば、本当に愛せるかもしれないと思い始めていた―― 「……はぁっ……あぁ……ン……」  気づけば、シャワーに肌を打たれながら、理人は自慰をしていた。高科を思うだけで熱いものがとろけ出し、物欲しげにひくつく後孔を、二本の指がにゅぷにゅぷと出入りしている。 「ぁ……はぁっ……はぁっ……」  こんなことばかり、繰り返してしまう。  肉体の半分を千切り取られてしまった虚しさと痛みで、心はいつだって陰鬱だ。なのに、心と本能は別物だと言わんばかりに、理人の肉体は愛を求めている。他でもない、『亡き番』の。 「ぁ、あっ、ぁ……ッ……良知、っ……ハァっ……んんっ、んぅ……っ」  ぬち、ぬち、といやらしい音が浴室に響き、理人の声も高くなる。  徐々に荒くなる吐息の中に、涙声が交じり始めた。

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