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8、警察の接触

   その日はどんよりした気持ちを抱えたまま、重たい気分での仕事となった。  今日から理人は、後輩が中心となって進めている『経口避妊剤』の開発チームに加わることになった。ポジションとしては彼らの研究をまとめる立場に据えられているが、実際はただのサブメンバーである。  彼らの行う実験を見守り、助言し、相談に乗る……そういう立ち位置だが、彼らとて学生ではない。理人の力など借りることなく、着々と仕事を進めている。  この一年、ほぼほぼデータ整理しかさせてもらえていなかったことを思えば、これは進歩なのだろう。だがやはり、複雑な気分である。  もうそろそろ、本格的に復活しつつあるところを職場の面々に見せたいところだ。以前から温めていた論文に手を付けようか……などと考えつつ、休憩を終えた理人は、研究室のドアの前で深々と深呼吸し、萎みかけている己の心を叱咤した。  そしてぐっと腹に力を込め、IDカードをセンサーに翳そうとしたその時、少し離れたところから名を呼ばれた。 「香乃理人さんですね」  元気よく入室しようという意欲を挫かれ、理人は怪訝な表情を浮かべつつそちらを振り返った。  そして怯えたように目を瞠る。  見ると、チャコールグレーのスーツを身にまとった長身の男が、ニッコリと人当たりのいい笑みを浮かべている。そうしてにこやかな微笑む男の顔立ちはとろけるように甘く、いかにも人好きのする端正な顔立ちだ。艶のある黒髪はきちんと整えられており、上品な雰囲気である。 「お久しぶりです。以前お会いした時よりは、顔色が良くなったんじゃありませんか?」 「……っ」  だが、理人を見据える瞳はまるで笑ってはいない。濡れた瞳でじっと理人を見つめる眼差しからは、どういうわけか赤い舌をちらつかせる蛇の姿を連想させる。理人はごくりと息を飲み、敢えての強気な口調でこう言った。 「け、警察の人が無断で俺に接触すると、法に触れるんじゃなかったですか?」 「ええ、そうでしたね。でも僕は、今日たまたまたここを通りかかっただけですので」 「……たまたまって」  事故の直後にこの男から執拗な事情聴取を受けたことを思い出し、ぞわりと胃のあたりが不快にざわめく。  高科の事故を一番に知らせてきたのは、当然のごとく警察だった。その時の担当刑事が、この一見オメガと見紛う優男・美園優一である。  たが美園はフリーのアルファだ。当時の理人は、彼のアルファフェロモンの匂いに、何度も吐き気を催したものだった。  事情が事情であるため、理人に問いかける口調こそ優しかったが、美園の目つきは蛇のように不気味だった。しかも彼の言葉には、理人を遠回しに責め立てるようなニュアンスが強く滲んでいるように感じられ、ただでさえパニック状態だった理人は、美園の優しい責め苦にずいぶんと追い詰められたものである。  だが、すぐにオメガ保護局の人間がやって来て、それ以上の事情聴取は行われなかった。その後も事件調査は進んでいたようだが、その経過について、理人はまだ一切知らされていない。 「あなたの状態が快方に向かっていると聞きましてね、そろそろ改めて事情を聞きたいなと思っているところなのです。体調の方は、どうですか?」 「……おかげさまで、薬さえ飲んでいれば、こうして普通に仕事に出てこれるようになりました」 「それはよかった。……と、いうことは、アルファへの拒絶反応もおさまってきたということですか?」  美園を拒絶したいという本能的な反応は、今も変わらないようだ。この男がそばにいるだけで、胃の中をぐるぐると引っ搔き回されるような不快感を感じてしまう。そっと鼻と口を押さえてみても、美園のアルファフェロモンは理人の中に侵入してこようとする。全身が粟立ち、背筋に脂汗が伝っている。  無言で呼吸を整えている理人を見下ろし、美園は唇に薄笑みを浮かべた。そして仮面のような笑顔のまま、一歩、二歩と理人に歩み寄ってくる。理人は反射的に後ずざった。  全力で自分を警戒している理人を見下ろし、美園は気を悪くする風でもなく、悠然と微笑んだ。 「その様子では、まだ無理のようですね。色々とお話ししたいことがあったんですが」 「……それって、良知……高科の件で、何か分かったことがあったってことですか?」 「ええ、そうですよ。知りたいですか?」 「そりゃ、知りたいに決まってますよ!」 「……おっと、でも、それを僕からあなたに話してしまうと、法に触れてしまうんでしたっけ。保護局に報告しますか?」  美園はちょっとおどけた口調でそう言うと、再びすっと身体を離し、理人との距離を取った。釣られているとは分かっているが、高科の死について知りたいことは山のようにあるのだ。  ――そりゃ、俺だって知りたい。良知がどうしてあんなところで死んでたのかってことも、俺に何を隠してたのかってことも……。  亡くなる数ヶ月前から、理人に対する高科の態度は、明らかに変化していた。よそよそしく、どこか硬く、いつになくむっつりと塞ぎ込むことが多かったように思う。  自責の念に駆られていた頃は、高科のそういった態度の変化を冷静に分析することはできなかった。だが、今ならば、少しはあの頃のことを冷静に振り返ることができるかもしれない。  情報を得るためには、理人もまた警察に協力しなければならない。 「……少しなら、構いません」 「へぇ、ありがたい。随分協力的になられたんですねぇ」 「その代わり、あんたが知ってることは全部教えてくれるんだろうな」 「ええ、当然です。あなたには知る権利があるのだから。いつ、お時間取っていただけますか?」  ごくり、と理人は固唾を飲んだ。美園はスラックスのポケットに手を入れて小首を傾げ、理人の反応を窺うような眼差しを向けている。 「……あ、明日の終業後なら……」 「分かりました。では、またお迎えにあがりますね」  そう言って、美園はとびきり華やかな笑顔を見せる。そして、ふと表情を切り替え、ちょうどそこへやって来た研究員の一人に礼儀正しく会釈をし、そのままあっさり去って行った。  理人はぎゅっと拳を体側で握りしめ、ようやくはぁ…………っと深いため息をついた。ずっと呼吸が浅くなっていたらしい。 「香乃さん、今の誰? アルファですよね」 と、理人の反応とは正反対に、美園の背中を好奇心丸出しの目つきで見送っている後輩・谷田辺である。理人がサブにつく研究グループのうちの一人だ。理人はのろのろと頷き、「うん、まぁ」と適当に返事をした。 「もう新しい相手に言い寄られてるんすか? 相変わらずモテますね」 「……はぁ? 違うよ、そんなわけないだろ気持ち悪い」 「え? そうなんですか?」  谷田部はさも意外といった顔で理人を見下ろし、ピッとIDカードを翳してドアロックを開いた。そして、淡々とした口調でこんなことを言う。 「だって、香乃さん今はフリーのオメガでしょ? そりゃ……精神的には色々あるかもしれませんけど、こんなとこで堂々と働いてりゃ、アルファだってほっとかないんじゃないですか?」 「……あのなぁ。俺はここで普通に仕事してるんだ。そんな、色恋沙汰にうつつを抜かしてる暇はないんだよ」 「そうですか? そうは見えないですけどねぇ。ま、俺らベータからしたら、どっちも大変だなっていう程度の話ですけど」 「……どういう意味だよ」  谷田部は開いたスライドドアの向こうから理人を振り返り、ちょっと眉根を寄せて渋い顔をした。そして、どことなく突き放した口調で、きっぱりとこう言った。 「正直迷惑なんすよね。ヒートだなんだっていう勝手な都合に振り回されて、俺らの仕事が滞ることだってあるわけだし」 「……そ、それは……申し訳ないと思ってる、けど」 「じゃあ、さっさと新しい番でもなんでも見つけて、仕事なんか辞めちゃえばいいんじゃないですか? こっちだってタイトなスケジュールの中で研究してるんです。いちいちペース乱されるのも、そろそろほんとやめてほしいっていうか」 「……」  谷田部は心底面倒くさそうにそう言い捨てて、さっさと研究室の中へと入って行く。  理人の目の前で、シュッとスライドドアが閉じた。  しばし呆然としていた理人だが、悔しさのあまり、拳がふるふると震え出す。 「な、何だよ……。何だってんだよその言い方……!! 俺は……好きでこんな、オメガになったわけじゃないのに……」  屈辱的な想いが氾濫し、涙が溢れそうになる。だが理人はぎゅっと目を閉じ、必死で怒りを抑え込んだ。  こんなところで泣けるわけがないし、こんなことで涙を流すなんて、あまりにも惨めではないか。

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