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9、相談ごと

   その日の夜。  仕事を終えた理人は、駐輪場へ向かってのろのろと歩いていた。  時刻は十八時半、太陽はまだ高い位置にあり、理人の冴えない表情をくっきりと浮かび上がらせている。  仕事のこと、人間関係のこと、そして、あの刑事とのやりとりのこと……様々なことが理人の頭を混乱させ、気持ちをずっしりと重くしているのだ。ついついため息が出てしまう。  俯きがちにごそごそと自転車の鍵を探していると、目線の先に、磨かれた黒い革靴がスッと現れた。  何の気なしに顔を上げてみれば、夜神月景が微笑みを浮かべて立っているではないか。理人は仰天して、思わず鍵を取り落としてしまった。 「け、景……! 何でこんなとこに」 「そろそろ仕事終わりかなと思って、迎えに来たんだ」 「迎えって……大した距離でもないんだけど」 「それに、理人は放っておくと食事をとらないみたいだし。俺、何か作るから。一緒に食べよう?」 「……う、うん」  そう言って優しく笑いかけてくる景の姿を見ていると、硬く強張っていた全身からするすると力が抜けていくような気がした。自転車は置いたまま駐車場まで歩ていゆくと、黒いセダンの扉がスッと開き、昨日の大柄な男・武知が姿を現わす。 「おかえりなさいませ、香乃様」 「あっ、ありがとうございます。昨日の今日で、また……」 「いいえ。お仕事お疲れ様でございました。どうぞ」 「……はい」  白い手袋をした手で、キビキビと理人を車内へ案内する武知である。生まれてこの方こんな丁寧な扱いなど受けたことのない理人は、終始恐縮しっぱなしだ。だが景は慣れたもので、「理人の自宅へ」と一言告げ、革張りのシートに悠然と身を預けている。 「……あの人は、ボディガードか何かなわけ?」 と、理人は小さな声で景に尋ねた。すると景は曖昧に笑い、「んー」とちょっと唸った。 「夜神家の執事で、今は俺の秘書ってとこかな。実家の奴らがうるさくてね、基本誰かがそばにいる」 「執事……へぇ、すげー。職場にも送迎してくれるってこと?」 「まぁ、基本的にはね。中央省庁は名家出身のアルファが多いからな、だいたい皆、運転手付きの高級車でご出勤だ」 「へえ……。そんな中でお前、大丈夫なの」 「何が?」 「オメガって……少ないんじゃないの? そういう職場だったらさ」  今の理人にとって、アルファに取り囲まれて仕事をするなど地獄に等しい。ただでさえ、オメガは弱い立場に回りやすい存在だ。官僚アルファの中に、こんなにも際立った美貌のオメガがいる。……何だかすごく危険な匂いがするのだが。 「まぁ、毎日のように言い寄られるのにも、もう慣れたさ。それに、みんな家柄のしっかりした奴らばかりだから、おちおちと妙な事件は起こせないし」 「そ、そっか。ならいいんだけど……。でも、突発的にヒートとか来たら……」 「俺は自分のホルモン値を毎朝計測して、体調を完璧に管理している。ヒートの予兆が出たらすぐに自宅勤務に切り替えるし、抑制剤もちゃんとしたものを使っているから。これまでそういうことでトラブったことはないよ」 「さ、さすがだなお前」 「自己管理は社会人の基本だろ?」  景はさも当たり前の様にそう言って、後ろへ後ろへと流れてゆく車窓を眺めている。景の横顔は涼しげだが、それでも、アルファの中でオメガとして働くという苦労はあるだろうに。  昔と変わらず、強くて凛とした景の姿を間近に見ていると、自分がいかにダメな人間かということを浮き彫りにさせられるような気がして、何だか気が落ち込んだ。 「……理人? どうしたの?」  突然黙り込んだ理人に、景が怪訝な目線を向けている。理人は何度か首を振り、「いや、何でもない」と言った。 「何でもないことないだろ。なんか急に、悲しそうな顔してる。……俺、何か言った?」 「ううん、大丈夫だって! あ、ほら、着いたぞ」 「あぁ……うん」  一人になりたい気分だったが、何となくそれさえも言い出しにくく、理人は景に腕を引かれるまま自宅へと戻った。すると後から、武知が大きな紙袋を二つ抱えてやって来る。景の指示でそれを玄関先に置きながら、武知は穏やかな瞳で景を見下ろした。 「他に御用はございませんか」 「ああ、もうないよ。今日はもう帰ってて」 「いえ、旦那様より、ずっと景様のお側に控えているようにと仰せつかっていますので」 「……やれやれ、過保護だな。好きにしろ」 「では、下におります。何かありましたら、すぐにご連絡ください」 「分かったよ」  景は面倒臭そうにそう言いつつも、すっと手を伸ばして武知の背をぽんと叩いた。武知は静かに微笑むと、礼儀正しく一礼し、理人の家から出て行った。  そうこうしている間に、景はテキパキと冷蔵庫に荷物を全て片付け終えている。無駄のない動きに感心していると、景はするりとジャケットを脱ぎ、ワイシャツ姿になった。  ほっそりとした身体には一切の無駄がなく、後ろ姿だけでも惚れ惚れするほど美しい。綺麗にととのえられた襟足や肩のライン、しなやかな背中から細い腰、小さな尻から伸びる長い脚……。こうして見るていと、改めて、景はすっかり大人の男になったのだなぁと、感慨深いような気持ちになった。  こんなにも美しく成長した景を、官僚アルファ達が放っておくはずがない。幼馴染のよしみで、こうして理人の世話を焼いてくれているのだろうが、彼のプライベードはどんなものなのだろうか。 「……景ってさ」 「ん?」 「番とか……いないの?」  理人の問いかけに、キッチンに立つ景がゆっくりと振り返った。  そして、思わせぶりな表情で、うっすらと笑った。 「……気になる?」 「えっ? あ、いや……まぁ。もしいるんだったら、こんなとこでこんなことしてていいのかなって……」 「そう、心配してくれてるんだ。嬉しいよ」  そんな言い方をされると、俄かに落ち着かない気分になってしまう。理人は正体不明の焦りにせっつかれるように、早口にこんなことを口走っていた。 「そ、そりゃいるか! いるに決まってるよな! 景、すげー美人になったし、っていうかガキの頃から綺麗だったし、家柄だって文句ないんだ。そりゃ、すげぇアルファと番ってるに決まって……」 「いないよ」 「……だよね、そりゃそーだよな。うんうん、変なこと聞いてごめん」 「だから、いないってば」 「…………えっ?」  勢いよく顔を上げ、景を見る。すると景は、包丁を片手にくすくすと笑っているではないか。してやられた……!! と、理人は顔を真っ赤にして、ぎゅうっと唇を引き結んだ。 「あははっ、何その顔。いないよ俺、番なんて」 「って…………そうならそうとはっきり言えばいいだろうが! もったいぶりやがって!」 「ていうか、どうしてそんなに動揺してるの? 俺に番がいたら、困る?」 「ぜ、全〜然困らない。どーでもいいわ」 「ふふっ、本当かなぁ」  景は肩を揺すって、しばらく可笑しげに笑っていた。理人はムスッとしながら景に背を向け、その場で部屋着に着替え始める。 「お前って、そんなねちっこい性格してたっけ。あーもう」 「理人はからかいがいがあるから、ついな」 「ついじゃねーわ。ったく……この性悪め。色々相談したいことあったのにさぁ」  ブツブツ言いながらTシャツに着替え、スラックスを落としてジャージを引っ張り出す。  ふと、景が静かになっていることに気づいた理人は、ジャージを膝上に引っ張り上げながら景の方を振り返った。  すると、景がしげしげとこちらを見つめていることに気づいてしまい、理人は慌ててジャージを一気に引き上げた。 「……な、何見てんだよ」 「いや、別に。……っていうか、相談したいことって? 食べながら聞くよ」 「あぁ……うん」  ――一応、美園刑事のことは話しといたほうがいいよな……。  トントントン、と包丁がリズミカルに野菜を刻む音が心地いい。  だが理人は、人知れずまたため息をついた。

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