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10、提案

  「美園優一、か」  景の作ったオムライスとコンソメスープは、レストランで食べるものと遜色がないほどに美味かった。全くもって生活感を感じられない外見(なり)をしているくせに、手際良く理人の好物を作ってゆくのだから驚きである。  初めは、理人が「美味い」を連発しながら食事をとっている様子をにこにこ見守っていた景であるが、昼間現れた刑事の話を出すと、急に目の色が険しいものへと変わってしまった。  指先で美園の名刺を弄びながら、景は冷ややかにこう言った。 「こういうことは、保護局を通してもらわないと困るんだけどなぁ」 「あ……やっぱそうなんだ。どうしよう、明日約束しちゃった……」 「まぁ、いい機会だ。俺も同行して、勝手なことをしないように釘を刺しとくさ」 「でも、景は俺の担当ってわけじゃないだろ。お前こそそんな勝手なことしてもいいわけ?」 「それは心配ないよ。理人の担当、俺に変更になったから」 「えっ? そうなの?」 「ドクターによれば、理人は急性期を抜けている。だから今後は、心身の状態をみつつ、元の生活に戻るためのサポートがメインになるんだ。ここからは俺が、理人を支えていくから」 「そ、そっか……元の生活、か」  それを聞き、理人はちょっとホッとした。まだ体調的にも不調な日は多いし、薬を飲まなければ情緒不安定な部分は隠せない。だがそれでも、以前より自分は回復しているのだと思うと、素直に嬉しかった。 「でも、カウンセリングは引き続き受けなきゃダメだからな。何か焦ってるみたいだけど」 「……な、なんで分かるんだよ」 「仕事終わりの暗い顔を見てりゃ、なんとなく分かるよ」 「うう」 「仕事でもプライベートでも、理人自身が新たに何かやってみたいことがあるなら、俺はサポートするよ。でも、一人で警察の人間と会おうなんて無茶なことは、絶対にしちゃダメだ。いい?」 「……う、うん。ごめん……」  厳しい口調で行動を諭され、理人は思わずしゅんとなってしまった。そんな理人を前に、景はしばらく黙っていたが、ふう……と小さくため息をつく。 「ごめん、きつい言い方して」 「い、いや全然。……なんか俺、全然周り見えてないっていうか……情けないな」 「そんなことないさ。他のオメガに比べたら、理人の回復は早いほうだよ。真面目にカウンセリングも受けてくれるし」 「受けない奴もいるの?」 「いるよ。……ていうか、俺たちがどうこうする前に、自殺してしまうオメガも多い」 「じ、自殺……」 「アルファに棄てられるケースや、恋愛関係の末に番っても、お家問題などのせいで不本意に引き剥がされるようなケースは、意外に多い。痛い目を見るのは決まってオメガだ。……まぁ、死にたくなる気持ちは分からなくはない」 「……そう、なんだ」 「理人は、どうだったの。番のアルファ……高科良知を愛していた?」 「えっ……?」  高科の名を聞き、ドクン、と心臓が跳ねた。  しかも景は、いやに真剣な目で理人を見つめている。わずかな反応さえ見逃すつもりはないといわんばかりの、まっすぐな目つきである。理人は戸惑った。 「愛……してっていうのとは、違ったと思う、けど」 「……そうなの?」 「だ、だって俺……大学、辞めたくなかったから、あいつんとこ行ったようなもんだったし……」  どういうわけか、言い訳がましい口調になってしまう。そうして動揺を見せる理人の瞳を、景は微動だにせず見つめている。 「施設に迷惑かけたくなかったんだ。……でも俺の強みは頭だけだったし、研究もやめたくなかった。アルファの誘い突っぱねて、長々と居座って、大学まで行ってる俺のせいで、施設が金に困ってるってのも知ってたから……」 「本当に、それだけ?」 「え……?」  景はどことなく昏い目つきで、じっと理人を見つめている。ぐっと身を乗り出し、斜向かいに座る理人の方へと、急に身体を近づけて来た。のけぞった拍子に、後ろ手をつく。 「それだけの理由なのか?」 「ど、どういう意味……? 景お前……な、なんか変だぞ? どうしたんだよ!」  妙な空気を漂わせ始めた景の肩に触れ、軽く揺さぶってみる。すると景ははっとしたように目を瞬き、ゆっくりと身を引いて、「……ごめん、つい」と呟く。そして、こう続けた。 「大事な親友が、俺の知らないところでどういう生活をしていたのか、知りたかっただけだよ」 「あ……そ、そっか。そうだよな、俺らまだ、そういう話してなかったもんな」 「で、どうだった。番のいる生活は」 「……うん……」  そう問われてみると、ここ最近思い出さないようにしていた高科の記憶が、久方ぶりに脳内に蘇る。 「……穏やか、だったかな、毎日。歳離れてたから、あいつ、俺が何言っても、何しても怒らなくて。……なんか、番っていうより親に保護されてるような感じっていうか」 「……ふうん、そうなんだ」  高科と暮らしていた五年間は、理人の人生で一番、『自由』を感じることのできる時間だった。『光の園』や『温室』にいた頃のように、規則や期待に追い立てられるプレッシャーからも解放された。  番の契約は、一生ものだ。期限付きの保護を与えてくれる施設とは違う。高科はそういう意味でも、理人が伸びやかに暮らすことのできる環境を与えてくれた。  だが、与えてもらったものはそれだけではなかった。高科はいつだって、理人のことを全肯定し、丸ごと受け止めてくれた。  静かに微笑む高科の横顔が、ふと、まぶたの裏に浮かんで消えてゆく。 「幸せだったんだな、理人は」 「……えっ?」 「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだ」 「あ……」  景に言われて初めて、頬が濡れていることに気づく。はらはらと両目から溢れ出す涙が、理人の頬を伝っていた。 「……幸せ、か」 「……」 「恋愛っぽい気持ちみたいな、そういうのは感じたことはなかったけどな。……まぁ、だからうまく行ってたのかも」 「そっか、なるほどね。……理人、高科氏のことを、落ち着いて人に話せるようになったんだな」 「え? ……あ」  理人はぐい、と涙を拭い、息を吐いた。  こうして普通に思い出話が出来るようになっているというのは、理人にとって大きな変化だ。  高科が死んだ瞬間のことは知りようがない。だが、まさに高科の命が消えたであろう時刻に、理人は不思議な体験をした。まるで、自分と世界をつないでいた糸が、ぷつんと切れてしまったかのような感覚に襲われたのである。  その時理人は仕事中だったのだが、唐突に襲いかかってきた激しい虚無感と不安でパニック状態となり、すぐさま医務室へと運ばれて行ったのだった。  訳も分からずただ不安に怯え、正体不明の涙に濡れながら臥せっていたところに、やって来たのが警察だ。そこで高科の事故のことを知り、理人はショックのあまり呆然自失の状態に陥ってしまった。  そんな状態の理人に対し、警察の事情聴取など土台無理な話だったのだ。だがあの美園優一は、理人に対して執拗に説明を迫った。あの時の怖気を今改めて思い出すと、あんな男と二人で会おうとしていた自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。  だが、こうして落ち着きを取り戻し始めると、今度は真相が知りたくなる。  高科の事故がどうして起こったのか、どこでどのようにして亡くなったのか……理人はまだ、何も知らされていないのだ。それに……。 「……自分でも、まだ整理がつかないことがあってさ」 「へぇ……どんなこと?」 「高科は穏やかな性格で、怒ったり不機嫌になったりってことも、ほとんどなかったんだけど」 「……それが?」 「でもあいつ……事故に遭うちょっと前から、妙にふさぎ込んでるっていうか、何か悩んでるっていうか……そんな感じがしててさ。……俺が怒らせたのかと思って色々聞いてみたりしたけど、『君には関係ない』の一点張りで」 「……ふうん」  景に話しながら、改めてその時のことを思い出す。  あれは、クリスマスの前後だっただろうか。ツリーを出すか出さないかというとりとめもない会話を最後に、高科は理人に対してひどくこわばった態度を取るようになった。  そして高科が亡くなったのは、ちょうど桜が散り始めた頃だ。だから半年もの間、高科は理人に冷たかったということになる。  だが、理人がヒートを迎えれば、高科はいつものように理人を抱いた。言葉をかける余裕など与えてもらえないくらい、激しく、猛々しく。その時ばかりは、理人も愛らしいオメガでいることができたのかもしれない。熱に浮かされアルファを欲する肉体に、思う様体液を注がれた。  だがヒートが過ぎ去れば、その時の情熱的なセックスのことなど忘れてしまうのが常だった。  それに理人にとって重要だったのは、忘れず『経口避妊薬』を服用すること。子どもなど欲しくないという理人の決意は、番って数年経っても揺らぐことはなかった。高科の目の前で、薬を喉に流し込むことも、一度や二度ではなかったはずだ。  当時は、自分があまりにも可愛げがないから、とうとう愛想を尽かされたのだろうか……という考えしか出てこなかった。  だがその後に続く、事故という不幸。  思い出すと、改めて様々な可能性を考えてしまう。 「なるほどね……。うっかり警察に協力しようと思ったのは、それが理由か」 「まぁ、ね。警察に協力したからって、何が分かるってわけじゃないかもしれないけど」 「そりゃそうだ。……まったく、本当にほっとけないな、理人は」 「な、なんだよ! 子ども扱いすんな!」  頭をぐりぐりと撫で回され、理人はブスッとしながら鼻をすすった。すると景はひょいと腕を伸ばして、テーブルの上に置いてあったグラスの水を一口飲む。  そして、どこまでも淡々とした口調で、こんなことを言った。 「じゃあ、行ってみる? 事故現場」 「…………えっ?」 「高科氏の死んだ場所へ行ってみれば、何か分かることがあるかもしれないだろ?」 「……っ」 「そこは二人にとって、何か思い入れのある秘密の場所なのかもしれない。……それが分かるのは、理人だけだろうし」  ――良知の、死んだ場所……。  理人は黙って、景の澄んだ瞳を見つめ返す。  心では既に分かっていた。  景の唐突な提案に、自分は迷わず手を差し伸べるであろうということが。

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