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11、疑念

   そこは、理人の部屋から車で一時間半ほどの距離だった。  見慣れた街を抜けると、徐々に灯りが減ってゆく。武知の運転する車は迷うことなく暗い山道へと進路をとり、上へ上へと登っていった。  暗い車内は心地よく空調が効いていて、とても静かだ。あまりの快適さに、うっかり本来の目的を忘れそうになる。  これから理人は、番が死んだ場所へと向かうのだ。  理人の胸は妙に高揚していた。番の死を生々しく肌で感じてしまうであろう恐れもあるが、そこへ行けば、これまでになかったものを感じ取れるかもしれないという期待もあった。汗ばむ両手をぎゅっと握りしめ、理人はゴクリと固唾を飲んだ。  一方、隣に座る景は、さっきから沈黙を守ったままである。  暗い車窓に、景の白い横顔が浮かび上がっている。その表情は凪いだ海のように静穏で、理人の抱えている緊張感などまるで関心がないといった様子にも見えた。  すると程なく、車が静かに停車した。山間のうねった道の途中に、車が一、二台停められる程度のスペースがある。  運転席の武知はすっと車を降り、スマートな動きでドアを開ける。恐縮しつつも車を降りると、そこは樹々の切れ目の開けた場所だった。月が照らす海がどこまでも見渡せて、とても眺めがいい。  そこはちょうど崖の上に張り出すような格好になっていて、視界を遮るものは何もなかった。  だが、古びた木柵の下は、まるで奈落だ。  しかも一箇所だけ、柵の色がまるで違う箇所がある。月明かりのおかげで目が慣れてくると、その色の違いは、柵を修理した跡なのだと分かった。  ちょうど、車一台が通れるほどの幅。  高科の車がこの柵を突き破り、遥か彼方にある地面に落下したという痕跡だ。 「……っ……」  月光に照らされているとはいえ、深い山々の谷間は漆黒の闇だ。そこに吸い込まれてゆく高科の車をついつい想像してしまい、あまりの生々しさに目眩を覚える。理人は口を覆って柵をぎゅっと握りしめ、想像してしまった悪夢のような風景を、必死で脳内から追い払おうと目を閉じた。 「理人、大丈夫か?」  背後から、景の静かな声が聞こえてくる。その声に縋りつくように、理人は小さく頷いた。 「……だ、いじょぶ……」 「そう……。ここ、理人の知ってる場所だった?」 「……いや」  震える指を拳にして、理人はもう一度目を上げた。だが、いくら目を凝らしてみても、ここは理人にとって何のゆかりもない場所である。激しい落胆が、理人の気分をさらに重く暗いものへと落としてゆく。 「この丸太の柵を突き破るってことは、高科氏の車はかなりのスピードが出ていたということになるな。すぐそこはカーブだ。山頂から下る最中にハンドル操作を誤って転落、といったところか」 「……」 「海が綺麗に見える場所だね。山頂のほうには、古い別荘地があるらしいよ」 「……別荘……?」 「そう。行ってみる?」 「ちょ……っと、待って……」  淡々と事実を語る景の調子に、まるでついていくことができない。 『かなりのスピードで』『柵を突き破って転落』それらの言葉は理人の頭の中でリアルな映像となり、運転席で恐怖に顔を歪ませる高科の姿までも、はっきりと想像させた。 「はぁっ…………はぁ……はっ……うぐっ……ぅっ……」  思わずその場に膝をつき、理人は激しく嘔吐した。つんとした胃液の匂いと味が粘膜を焼き、ぼろぼろと涙が溢れる。 「っ……はぁっ、はぁっ…………うっ……ごほっ……」 「武知、水を」 「はい」  汚物と涙にまみれたひどい顔で、理人は傍にしゃがみこむ景の姿を見つめた。景のどこまでも静謐な表情が、今は妙に腹立たしいような気分だった。  彼の表情に、清々しいまでに無関心が見て取れたからだ。『理人の支えになる』という言葉をくれた時の笑顔は全て嘘だったかのように、景は仮面のような美しい顔をしている。 「……さ、口を拭いて。うがいをするといいよ」  差し出されるミネラルウォーターのペットボトルを、理人は無言でむしり取る。荒っぽい手つきに気を悪くするでもなく、景はすっと立ち上がって腕組みをし、月の映る海を眺めていた。 「景……」 「ん?」 「……いや、なんでもない」  ――そりゃ、そうか……。景は役人としてここにいるんだ。『真相を知りたい』と望んだ俺のサポートをするために。  ――……何を期待してるんだ俺は。俺の番が死のうが、俺がパニックになろうが、景にはなんの関係もないことじゃないか……。  もっと親身になってもらえるのではと、甘い期待を抱いていた自分がばからしくなった。  理人は、景のことを親しく感じていた。再会できたことを、心から嬉しいと思っていた。景もきっと、自分同じように感じてくれているものだと。だがそれは、理人の一方的な勘違いであったらしい。  再会に心を踊らせ、安堵し、無条件に心を許していた自分に腹がたつ。と同時に、萎えていた気持ちにいくらか張りが生まれてくるような気がした。  理人は水で口を濯ぐと、一つ深いため息をつき、景に向かってこう言った。 「その別荘地とかいうとこ……見ておきたいんだけど」 「ああ、いいよ。武知、行くぞ」 「……はい」  武知のほうがよっぽど理人の状態を心配しているように見える。ちらりと理人に向けられる気遣わしげな目線には、明らかな人情味が感じられるではないか。  だが、景はどこまでも事務的な態度を貫いたままだ。理人を車内にエスコートする動きは紳士的で完璧だが、まるで機械人形を相手にしているような気分である。  そして無言のまま山道を揺られること、五分。  車は唐突に、開けた場所に出た。  茫々と草花が生い茂った広い土地に、古びた建物が見えた。煌々と夜空を照らす月明かりの下、その建物の壁が、ぼんやりと白く光を湛えている。  野草たちが好き勝手に生い茂るそこは、昔は恐らく庭だったのだろう。綺麗に刈り込まれた芝生が青々として、さぞかし美しい眺めだったに違いない。 「……ここは」 「高科氏はここに立ち寄ったのかな。とっくに人が住まなくなった場所みたいに見えるけど」  景の声を耳半分に受け止めながら、理人は一歩二歩と夏草の中に分入ってゆく。スニーカーの靴底の下で、きゅっと草が踏み固められる。その感覚が、不穏に理人の心の奥底を撫で回す。  家のそばには、朽ち果てた木製のブランコの残骸が横たわっているのを見た。  玄関ドアの形、三角の青い屋根、窓の配置……その家が持つ薄ぼんやりとした輪郭が、理人の記憶を唐突に揺さぶった。  ――俺は、ここへ来たことがある……。ここを、知ってる……。  そう感じた瞬間、理人は再び激しい吐き気に襲われた。ふらついた拍子に家の壁に手をついたが、ささくれた木壁のざらりとした感覚に、ぞっとするような怖気を覚える。  ――どうして? 俺は、こんなところ知らないのに。どうして……。  ざらざらとした不快感が胃を揺さぶり、背筋に嫌な汗が伝っている。呼吸は浅く、手足は冷たく、ぐわんぐわんと脳内が騒がしい。  高科を失ってから何度も経験してきたあの発作が、理人の全身をじわじわと強張らせ始めている。理人はとうとう夏草に両手をついて、もう一度嘔吐した。吐くものがなくなっても吐き気は収まらず、両目からぽろぽろと涙が溢れた。激しく咳き込めば、息苦しさのあまり倒れ伏してしまいそうになる。 「理人、発作が出たのか? いけないな、そろそろ戻った方がいい」  理人が一人身悶えているというのに、景の声には何の動揺も感じられない。  そんな景の態度にやけに違和感を刺激され、理人はのろのろと後ろを振り返った。  月を背に理人を見下ろす景の双眸が、うすぼんやりと光を宿しているように見え、ぞっとした。 「……景。どうして、俺をここへ連れて来たんだ……?」  どうしてか、そう問いかけられずにはいられなかった。すると景は質問の意図が分からないと言いたげな表情で小首を傾げ、ゆったりと瞬きをした。 「理人がそう望んだからだ。……違うか?」 「そう、だけど……!! ここは、何!? この場所は何なんだ!? お前、何か俺に隠してることがあるんだろ!? 言えよ!!」  そう叫んだ瞬間、ぎゅううっと気道を締め付けられるような息苦しさが、理人に襲い掛かってきた。 「はぁっ、はぁっ、ハッ、ハァッっ……あ、ぐっ……」  ――息が、できない……っ……!! 発作の薬……持って来て、ないのに……!!  番の喪失に伴うこの発作は、過換気症候群とよく似た症状を引き起こす。まるで、自分の前から消えてしまった番の後を追うかのように、棄てられたことを絶望し、自ら命を断つかのように、肉体自ら呼吸を奪う発作なのだ。  だが、今は意志の力の方が、わずかに優勢を保っているらしい。  理人は無様に這い蹲り、喘ぎながら景を睨めつけた。 「けいっ……ハァっ……、はっ……はぁっ……こたえろ、よ……!!」  だが、景は何も答えない。  とうとう夏草の中に倒れ込んでしまった理人を冷淡な目で見下ろして、普段と変わらぬ口調でこう言った。 「……武知、理人を車へ」 「は……はい。ですが、すぐ病院へ行かれた方が……」 「黙れ。お前は俺の指示に従っていればいい。……俺がいいと言うまで、そこで待機してろ」 「はい……」  有無を言わさぬ景の声音は、これまでに聞いたことがないほどに、低く重いものだった。

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