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13、受け入れがたい現実と
気が付くと、朝になっていた。
理人はいつものように、自分のベッドの上で目を覚ました。
長い長い眠りから、ようやく覚めたような気分だった。身体はほんのりと気だるく、頭は重く痺れている。
家族の、夢を見た。
それは自分自身の記憶なのか、それとも、願望とともに作り上げてしまった幻影なのかは分からない。
だが、理人は確かにあたたかな団欒の中にいた。二人の顔は定かには思い出せないが、幼い理人を見つめる両親の眼差しが、理人の胸をじんと熱くしたものである。
――こんな夢、これまで一回も見たことなかったのにな……。
不思議な気分だった。
これまで理人の身に起こったことは、全てが悪い夢だったのではないかと錯覚してしまうほど、静かな朝。
だが、無造作に置かれたスーツのジャケットを見て、理人はハッとした。
これは昨日、景がここへ置いていったものである。オムライスを作るからといってワイシャツ姿になったとき、ジャケットを脱いでここに置いて……。
「うっ…………!」
途端に、昨日の記憶が一気にフラッシュバックして、激しい吐き気に襲われた。理人はシンクへ駆け寄り前かがみになったが、もう吐くものなどないと言わんばかりに、胃が痙攣するだけである。
「はぁっ……はぁ……ッ……ぁあ……」
シンクに手をつき、ずるずるとその場にへたり込む。
昨日、景に聞かされたことは、すべて真実なのだろうか?
それとも、景は理人を騙そうとでも……。
――いや、そんなことをする意味が、どこにある……。
理人はシンクに背中をもたせかけ、焦点の定まらない瞳で空 を見据えた。
「……嘘、だったらいいのに。全部」
ぽつりと呟いた声は着地点を失って、その場でどろりと溶けていく。
欲しかった家族は存在した。だが彼らは、唯一無二の番となる男によって命を絶たれていた……そんなお粗末なミステリ小説のような展開が、まさか己の身に降りかかって来ようとは、微塵にも考えたことはなかった。
高科は温厚な性格で、いつだって理人に優しかった。あんな男が、オメガ人身売買に関わっていたなど、にわかには考えにくいことだ。それに、高科は弁護士だ。どういう経緯で、オメガ人身売買になど関わることになったというのだ。
理人よりも一回り以上年上の高科に、二十二年という歳月の間に何かしらの変化があったとも考えられるが、理人の中にある高科のイメージとは、まだどうやっても結びつかない……。
だが、高科によく似た若い男のあの視線が蘇り、理人は思わず身を硬くした。
興奮状態で目を血走らせた男と、理人は確かに視線を交じらせたように感じた。だが、理人は何をされることもなく生き延びた。
二十二年前の出来事となると、理人は当時まだ五歳だったということになる。年齢のせいか、事件のショックで記憶が混線でもしているせいか、理人の中の両親の記憶は曖昧だ。だが、激しい暴力に晒されたあの瞬間のことだけは、理人の中で鮮明に蘇ってしまったらしい。理人は思わず目を覆い、奥歯が軋むほどに強く噛み締めた。
高科はずっと、理人を騙していたとでも言うのだろうか。
あの時の子どもだと気づき、監視目的で理人を手元に置いたとでも……?
全てを知りたいという欲求が、理人の中でむくむくと育っている。だが、全てを知る張本人はすでにこの世になく、ありのままの真実を語らせることはもうできない。
――あぁもう、何もかもどうでもよくなってきた……。
ちょっと前まで、早く日常生活に戻りたい、研究の前線に戻りたいと望んでいたのに。そんなものはもう、理人にとってなんの意味もないもののように思えてくる。
ごろんとフローリングの床に転がって、理人はぼんやり天井を見上げた。
――昨日の記憶が、曖昧だ……。多分俺、パニック起こしてぶっ倒れたりしたんだろうな……。
ふと、景とキスを交わしたことを思い出す。理人はゆっくりと手を持ち上げ、自らの唇に触れてみた。
――あいつ、どうしてあんなこと……。
吐瀉物にまみれた自分にあんなことをするなんて、正気の沙汰とは思えない。それでも、景のキスはひどく心地が良かったことを思い出し、理人は苛立ち紛れにため息を吐く。
その時、インターホンから呑気なチャイムが聞こえてきた。
起き上がるのも億劫で、理人はひたすらにそれを無視しようと思った。だが、あまりにもしつこくチャイムが鳴らされるものだから、理人は渋々起き上がり、のろのろとドアへと向かう。
念の為、ドアモニターで相手を確認してみる。
画質の悪いモニター内に映っているのは、黒いスーツに身を包む、見知らぬ長身の男である。しばしばここを訪れていた、カウンセラーたちではない。
「……誰だろう」
じっと大人しく返事を待ち、時折視線を巡らせつつ理人の反応を待っているようだ。さらにもう一度チャイムが鳴らされたことで、理人はようやく通話ボタンを押し、応答する。
「……はい」
『あっ、突然申し訳ありません。私は、法務省オメガ保護局の芦屋と申します。お電話が繋がらないようでしたので、直接訪問させていただきました』
「保護局……? え? でも俺の担当は……」
『夜神は私の同僚で、彼は今、オフィスで始末書に追われています。昨日の件で折り入ってお話ししたいことがありまして』
「……」
景の同僚を名乗る芦屋という男は、はきはきとした声でそう話し、モニター越しに身分証明書を提示した。それでもまだ警戒を解くことができない理人は、チェーンをかけたまま細くドアを開いた。
すると、ひょいとドアを覗き込む芦屋から、かすかにアルファフェロモンの匂いがした。理人がやや怯えた顔で身を引くと、芦屋はぎょっとしたように顔を引きつらせ、くんくんくんくんと自分の服の匂いを嗅ぎ始めた。
「に、匂いますか!? フェロモン抑制剤を飲んできたんですけど、匂いますか!?」
「え? あ、いや……そこまでは」
「あぁ……そ、そうですか。夜神にうるさく言われてるんですよ。拒絶反応が出るから、抑制剤飲んで行けって」
「あ……そ、そうなんですね」
アルファの男と二人きりで相対していることに緊張を隠せないが、芦屋の人のいい笑みに気が緩む。すると芦屋は、一つ咳払いして、理人にこう提案した。
「すぐそこに喫茶店がありますよね。宜しければ、そこでお話しできたらと思うんですが……」
「あ、はい……。あ、でも仕事……!」
ハッとして壁掛け時計に目をやるも、とっくに始業時刻は過ぎている。無断欠勤をやらかしてしまった迂闊さに、理人は頭を抱えたくなった。
すると芦屋はおっとりとした口調で、理人を慰めるようにこう言った。
「昨晩発作が出たと聞きましたので、本日の欠勤はあなたの上司に連絡済みです」
「……え、そ、そうなんですか」
「ですので、のんびり朝食などどうですか? あとで夜神も合流したいと言っていましたし」
「……分かりました。着替えてくるので、先に店、入っててください」
理人がもそもそとそう言うと、芦屋はにっこりと爽やかに笑った。
+
芦屋の待つ店は、レトロな外装がいかにも渋い純喫茶だ。
一人で入る勇気がなく、理人はまだ一度も入ったことはない。緊張気味に、色ガラスの嵌った重い扉を押し開けると、カランカラン、と軽やかなベルの音が耳をくすぐる。
「大変申し訳ありません。うちの夜神が暴走して」
「え。……いえ……そんな」
奥まったテーブル席で待つ芦屋の前に座った途端、芦屋は深々と頭を下げた。水を飲んでいた理人はぎょっとして、思わず口の端から水を滴らせてしまう。
「あ、あの、顔を上げてください。俺は……平気ですから」
「いや……平気ってことはないでしょう。大切な番が亡くなった場所にいきなり連れて行くなんて、全くありえないことですよ。……最近のあいつはどうかしてる」
「……」
芦屋は苦々しい表情でそう吐き捨てると、ぐいっと一息に冷水を飲み干した。
アルファらしい逞しい体躯に、男らしく豪快な動作。ここ最近理人の周りにはいなかった人種がすぐ目の前にいることが珍しく、理人はしばし芦屋の一挙一動に目を奪われてしまった。
すると芦屋は怪訝そうな目で理人を見て、「どうかしましたか?」と尋ねてきた。
「あ、いえ……まともに、アルファの方と会話をするのは久しぶりで」
「あぁ……無理もないでしょう。俺が目の前にいて、大丈夫ですか? 食事、摂れそうです?」
「ええ、おかげさまで。あなたはそんなに、匂いません」
「そうですか、よかった」
そう言って快活に笑ったあと、芦屋は細々と理人に質問を投げかけてきた。主に体調のことや職場のこと、そして昨日の出来事についてである。
質問攻めといっても圧迫感のある態度ではなく、日常会話を交わすような要領で、芦屋はぽんぽんと話を進めていく。おかげで、緊張していた理人の顔にも、徐々に笑みが浮かび始めた。
――この人が知っているのは、景が事故現場に連れてったことだけか……。
会話をしつつ、理人は内心そんなことを考えた。そして、ちょっとホッとする。
自分でもまだ消化できていない己の過去を、今誰かに掘り返されてしまうのはきついものがある。それに、こうして第三者と話をして冷静さを取り戻してくると、景の話を丸ごと鵜呑みにすることはできないような気もしてきた。
「……もう一回、落ち着いて話さないとな……」
「え? 何か?」
運ばれてきたモーニングのトーストにバターを塗りながら、理人は無意識にそう呟いていたらしい。理人は慌てて首を振り、曖昧に微笑んだ。
向かいに座る芦屋もまた、理人と同じメニューを頼んでいる。が、芦屋はとっくに八割がたを食べ終えているのに対し、理人はまだサラダをつついた程度だ。
「食べるの早いんですね」
「あ、ええ。最近忙しくて、掻き込む癖がついっちゃって。はは、すみません」
「いえ、そんな……」
「ところで、夜神とあなたは、幼馴染なんですよね?」
「ええ。小学校時代に、仲良くて」
「そうなんですか。なんだか想像できないなぁ、あいつのガキ時代とか」
「可愛かった……というか、昔から美人でしたよ。でも、てっきり景はアルファになると思ってたんですけどね」
「へぇ……そうなんだ」
「なんでもバリバリできて、ツンツン尖ってたけど、そこがかっこよくて……憧れたなあ」
そうして思い出話を語っていると、ほんのちょっとだけほっこりとした気持ちになれた。
景と再会してからずっと、訳の分からないことだらけで振り回されっぱなしだが、あの頃のことを思うと胸が少し軽くなる。
「……あの頃は、よかったですよ。オメガだとか、アルファだとか、そんなのどうでもよかったんですもん」
「確かに、そうですよね」
「俺は……自分が、まさかこんなことになるなんて想像したこともなかった。もっと平凡で、気楽で、人間らしい生活を送っていると思ったのになぁ」
「……」
気が緩んだせいか、目尻にじわりと涙が浮かんだ。目を伏せてごしごしと涙を拭うと、芦屋がすっとハンカチを内ポケットから取り出し、理人の方へ差し出そうとしている。
だが、ぴくりとその手が途中で止まった。
「……その話、もっと詳しく聞きたかったのですが……」
「え?」
芦屋の目線に導かれるように窓の方を見遣り、ぎょっとした。
やや曇った大きな窓ガラスの向こうで、景が目を血走らせながら芦屋を睨みつけている。
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