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16、暴露〈景目線〉

   泣き腫らした瞼が、すぐそばにある。  景はベッドに寝そべったまま、汗で濡れた理人の髪の毛をそっと撫でた。  気づけば窓の外は暗くなっていた。いったい何時間、理人を抱いていたのだろう。  ――こんなひどいことを、するつもりじゃなかったのに。  ずっと抑え込んでいたものが一気に壊れ、理性を失い理人を犯した。何度も、何度も。  想像の中では優しく理人を抱くことができていたのに、触れてしまえば歯止めが効かず、制止をキスで封じ込め、快楽で理人を支配した。  普段は理知的な雰囲気を漂わせる理人だが、セックスに溺れる様はあまりにも妖艶で、途方もなく綺麗だった。景に触れられることを口では拒みつつ、肌を震わせ腰をくねらせ、執拗な愛撫にとろけてくれる。かわいくて、かわいくて仕方がなかった。  だが、理人の蕩けた表情の向こうに垣間見えるのは、こうして同じように理人を抱いていたであろう高科の顔だった。  理人の身体を開き、快楽を教え込んだのはあの男だ。それを思うだけで、気が狂いそうになるほどの嫉妬を感じた。  あの男の舌が、理人の肌を這い回った。あの男の指が、理人の蜜壺を押し開いた。あの男の精が、理人を中から汚した――  甘い声で理人が鳴くたび、愛おしさを感じると同時に憎しみを覚えた。高科への怒りを感じると同時に、あんな男の前で脚を開いて、淫らな顔を見せた理人にも理不尽な怒りを感じた。  全く身勝手な感情だと頭では分かっている。だが、感情はコントロールを失って暴走し、理人への愛撫が荒くなる。 『あの男とは、どんな風にしてたんだ?』『もっと奥まで、突いてもらってた?』『俺みたいな男に乱暴にされてるのに、こんなに濡らして……いやらしい身体になったんだね』『もっと欲しいの? ふふ、よくもそんなことが恥ずかしげもなく言えるね』  喘ぎ声も掠れ始めていた理人を自分勝手に穿ちつつ、無神経な言葉をたくさん投げた。獣のように後ろから理人を貫き、これは罰だと言わんばかりに、白い尻を強かに打った。そんな仕打ちをされているというのに、理人はきゅうきゅうと景を締め付け、甘い声で可愛くよがり、美味そうな蜜を滴らせた尻を突き出すのだ。  理人を抱きたいと思っていた。だが、これは果たして自分の望んだ形だろうか。  優しさのかけらなど微塵も感じさせないような、暴力的で嗜虐的なセックスを押し付けて、思うさま中に注いで、もうだめ、もうむり、と叫ぶ理人を犯し続けた。 「……ごめん」  ――こんなセックス、大嫌いなのに。……力ずくで相手をねじ伏せて、自分の欲望を押し付けるなんて、獣以下の、最低な行為だ。  不意に、ずきんと頭の深部が刺すように痛んだ。  景はきつく眉根を寄せて息を止め、ふらふらとベッドから降り、服を探す。 「っ……はぁ……はぁっ……」  今も消えることのない、忌まわしい記憶。景の全てを壊した、あの悪夢。  いくらカウンセリングを重ねたとしても、いくら時間が経ったとしても、忘れて前へ進むことなどできるわけがない。  ピルケースから錠剤を取り出し、景は震える指でそれをつまみ上げた。口に放って奥歯で噛めば、苦い味が口いっぱいに広がって、どうしようもなく不快な気分になる。 「……はぁ……くそっ……くそっ……」  ワイシャツを羽織っただけという格好で、景はその場で項垂れた。理人を抱いていた時とは異なる汗が、べっとりと背中を濡らしていく。全身を這い回る手の感触がざわざわと肌の上に蘇り、景は思わず口を覆った。 「う……うっ……ふぅっ……」 「……景?」 「っ……!」  弾かれたように顔を上げると、ベッドの上で理人が上半だけで起き上がっていた。 「……どうしたの」 「い、いや……何でもないよ」  景はベッドサイドまで戻ると、そこに座り込んで理人の頭を撫でた。すると理人は脱力し、ぼすんと枕に頭を落とす。  薄暗がりの中で目が慣れてくると、心地好さそうに目を閉じて、景のされるがままになっている理人の表情が見えてくる。ただ単に起き上がる気力がないだけかもしれないが、乱暴な扱いをした景を邪険にすることもなく、こうして触れることを許してもらえていることが、幸せで幸せでたまらなかった。 「……何でお前が泣いてんだよ」 「え?」  不意に、訝しげな理人の声が聞こえてきた。はっとして目を瞬くと、まつ毛がしっとりと濡れている感触に気づく。  すると理人は上目遣いに景を見上げて、指先で景の頬を拭ってくれた。瞬きするたびにぽろぽろとこぼれ落ちる涙を。  罪悪感と幸福、そして愛情と嫉妬の狭間で疲れ果てた心が、とうとう音を上げてしまったのかもしれない。 「……ごめん」 「……何が?」 「こんなこと、して……本当にごめん。嫌だった?」 「……」  景がそう呟くと、理人はどことなく怒ったような顔をして、枕に顔を埋めてしまった。そしてうつ伏せのままくぐもった声で、ぶつぶつと何か言っている。 「……別に、嫌じゃなかったけど」 「ほ、ほんと?」 「じゃなきゃ……こんな、何回もしねーよ」 「理人……」  そう言われて、景は思わず理人の頭を抱きしめた。すると理人はもぞもぞと裸の腕を持ち上げて、べしべしと景の背中を叩いてくる。 「ちょっ……苦しいって」 「あ、ごめん……」  素直に謝り腕の力を緩めると、理人もまた大人しくなった。景の背中に回した腕はそのままに、しばらく、こっくりと黙り込む。  理人が自分から離れていかない。それがとても嬉しかった。理人の髪の匂いを深く深く吸い込みながら、心地好い沈黙に頬を寄せる。 「……俺」  すると、ぽつりと理人が何か呟く。微かに身じろぎすると、理人は少しかすれた声でこう言った。 「……お前に憧れてた。子どもの頃……」 「え……?」 「一緒にいると、楽しくて、居心地が良くて……。あんな日が、毎日毎日、ずっと続くんだと思ってた。だからあの日、お前が急にいなくなって、俺、ショックで、心配で……」 「……うん」 「あの日お前が言ったことって、こういうこと? 俺が好きだったって……こういう関係に、なりたかったってこと……?」 『あの日』というのは、景が理人の前から消えた日のことだろう。不意にあのときの光景が目の前に浮かび、景は小さく目を見開いた。  ――……あの頃に戻れたらいいのに……。  何年も何年も、理人の胸を詰まらせていた願望が、今再び大きく大きく膨れ上がる。 「……そうだよ」 「そ、そうなんだ……」 「でも本当は、俺が理人にこんなことする権利なんて、ないんだ」 「……え?」  景は理人脳でから離れて、すっと立ち上がった。  そして散らばっていた服を、一枚一枚身につけ始める。  背中に、理人の視線を感じる、戸惑いがちな空気も、 「……高科に、何か目的があるんじゃないかって考えてたみたいだけど。それはないよ」 「……え?」 「あいつはね、本当に理人に一目惚れしてたんだ。……過去に自分が壊した家族の生き残りとは、気付かずにね」 「な……」  景は腕を伸ばして自分のジャケットを拾い上げると、裸の理人にそっと羽織らせた。理人の不安げな眼差しを見つめていると、すぐにでも抱きしめて力づけてやりたいという気持ちになる。  だが、今の自分には、そんなことをする権利などない。  景は、ぽつりとこう続けた。 「高科が死ぬきっかけを作ったのは、俺だ」 「は……?」 「俺のせい、なんだ」  理人と再会してからずっと、腹の底に抱えていた罪悪感。  それを口にした瞬間、景の胸はずきりと痛んだ。 「景……それ、どういうことだよ」 「許せなかったんだ、あいつを。理人から家族を奪っておきながら、理人に甘い夢を見て、欲しいままに理人を愛したあいつのことが、憎くて憎くて仕方がなかった。……俺が欲しかったものをやすやすと手に入れて、幸せそうに笑うあいつのことが、許せなかったんだよ」  淡々とそう語りつつ、景はそっと理人から視線を外した。  愛おしい相手からの憎しみの念を感じ取るのが、怖かったから。  だが、あんな酷い行為をした上に、ここまでぶちまけてしまえばもう、憎まれるよりほかはない。景は諦観を微笑みで隠しつつ、自分の醜い本心を語り続けた。 「だから俺は、あいつの過去を知った時、笑いが止まらなかったよ。ざまぁない、ご立派なアルファ様にも、クソみたいな過去があったんだって、勝ち誇ったような気持ちになった。嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。これで理人を奪い返せる。勝った、と思った」 「……そんな」  理人の声が震えている。  そこに滲む感情は、いったいどういった類のものだろう。 「俺はある日、入管に出張してきていたあいつに言った。『人身売買からは、すっかり手を引いたんですか?』って。それを聞いた時のあいつの顔……今でもはっきり覚えてる。血の気が引くって、まさにああいうことをいうんだろうな。あっという間に顔が真っ白になって、まばたきも呼吸も止まって。そこからだんだん、全身が震えていくんだ。それであいつは一言、こう言った。『……違う』って」  高科の弁明など聞きたくなかった。だから景は、動揺を見せる高科にそれ以上語る機会を与えることなく、距離を置いた。  それから半年後。  高科の事故死の知らせが、景の元にも届いたのだった。 「高科があんなところをうろついていたのは、過去を悔いたせいかもしれないな。理人を愛したことで、罪悪感みたいなものが芽生えたのかも」 「……もういい、やめろ……」 「いいや、やめない。……俺が余計なことを言わなけりゃ、理人は今もあいつと幸せに暮らしていたと思う。過去の真実なんて知る由もなく、普通に生活して、キャリアを積んで、いつかは家庭を作ってみてもいいと思っていたかもしれない。でも俺は、理人の未来の可能性を全部潰した」 「……もういいって、言ってんだろ!! もう黙れよ!!」  とうとう理人が声を荒げた。だが、景は動じることはなく、静かに瞼を持ち上げた。 「高科は途方にくれたと思う。理人にも冷たかったって、話してたろ? きっと、まともな精神状態じゃなかったんだろうな。……だからあの現場でハンドル操作を誤って、事故を」 「黙れって言ってんだろ!! もう……もう、出てってくれよ。……何も聞きたくない……」  頭を抱えて蹲ってしまった理人が、絞り出すような声でそう呻いた。  ひりひりと痛みで焼けつきそうな胸を押さえて、景はゆっくりと立ち上がる。  暗い部屋の中、景はもう一度理人を見下ろした。 「ひどいことばかりして、ごめん。でも……これが真実だ」  理人は貝のように硬い沈黙を抱いたまま、景にくるりと背を向けた。

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