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33、ホテル・ロスメルタ
「うわ……でかっ……」
緊迫した場面であるはずなのに、理人は間の抜けた声を上げてしまった。
景の兄の使いとやらに連れられてきた場所は、都心部にあるきらびやかな高層ビル『ホテル・ロスメルタ』。ここ五年間は、五つ星の評価を維持し続けている高級ホテルである。
二人を呼び出した男・夜神 令は、夜神家の長男である。三兄弟の長男で、年齢は三十三歳。当然アルファだ。
主に航空会社を運営する夜神家は、ホテル産業にも力を入れている。現在は長兄である令(れい)が、ホテル産業のトップで仕事をこなしているのだと、理人は景から説明を受けた。
ロスメルタの最上階が令のオフィスで、二人はそこへ向かうエレベーターの中にいる。
ガラス張りの箱が、滑るように空へと登ってゆく様には心ときめくものがあるが、これからなされるであろう会話を予想すると、理人の胃はしくしくと痛む。
一応スーツを着てきたけれど、こんなところに、一般庶民の自分はいかに不似合いに見えることだろう。
だが、隣で冷えた表情を浮かべている景は、この風景の中でも流石のように違和感がない。
むしろこういうハイソサエティな場所のほうが、景にはよく似合っているのだ。今更のように身分の違いを思い知らされ、気持ちがじわじわとしぼんでいく。
だが、ここで引き返すわけにはいかない。景とは、これからずっと一緒にいると誓ったばかりなのだから。
高級感が滲み出している硬めの絨毯を踏みしめながら、理人は人知れず拳を握りしめた。廊下は床まで全てガラス張りで、まるで空の上を歩いているようにおぼつかない。
やがて、クールなダークブラウンの扉が目の前に現れる。
二人をここまで案内してきた男は、白手袋を嵌めた手で、恭しくドアをノックした。
「失礼します。景様をお連れいたしました」
「ああ、入ってくれ」
低い男の声がした。思わず背筋が伸びるような、バリトンの声。
景の涼やかな低音よりも数段低い男の声に、否応無しに緊張感が高まってゆく。
サッと開かれたドアの向こうには、広々とした空間が広がっている。大きな窓はそのまま室内まで続いているが、そこは白いシェードが降りている。黒い壁を背にした大きなデスクには、一人の男が座っていた。
その男が、ゆっくりと立ち上がる。
「……景。久しぶりだな」
「兄さん……」
夜神 令は、美丈夫という言葉のよく似合う、押し出のいい男だった。
アルファということもあり、景よりもずっと逞しい体軀をしている。見るからに仕立てのいいスーツが、筋肉質な肉体と知的な顔立ちによく映えて、いかにも仕事のできるビジネスマンといった雰囲気だ。
よく磨かれたマホガニーのデスクから離れ、令はゆっくりと前へ出てきた。そして、やや硬い動きで、景と理人にソファを勧める。
「す、座ったらどうだい? あの……すぐにコーヒーでも持ってこさせるよ」
「……」
凛々しい男前だが、緊張しているのかなんなのか、口調の方までとても硬い。その向かいに佇んでいる景もまた、じっと押し黙って直立不動だ。戸惑った理人は二人を交互に見比べたあと、景に「す、座る……?」と促してみた。
「あ、うん……そうだな」
「あの……失礼します」
「いえ、突然お呼び立てしてしまい、大変申し訳ありませんでした」
見た目に反して、令はえらく腰の低いことを言う。理人は戸惑いつつも、景を引っ張ってソファに腰を下ろした。すると令も、向かいのソファに座る。
が、なかなか話が始まらない。
仕方なく、理人は社会人然とした笑顔を浮かべ、汗をかきながら脚を組んだり戻したりしている令に尋ねた。
「あ、あの……今日は一体どういったご用件で……?」
「あっ……そうですね。大変申し訳ない。弟とは実に十五年ぶりの再会で……ちょっと緊張を」
「十五年!?」
「ああ……兄とは、あの事件以降会ってなかったからな」
「そ、そうなんだ」
令と同様、景も気まずげで歯切れの悪い口調である。
だが、緊張しているとはいえ、令は用事があってここに二人を呼び出したのだ。いったい何を言われるのだろうか……と、理人はより一層不安になってきた。
景を迎えにきた? オメガである理人とともに暮らそうとしてることがばれて、仲を引き裂こうとしている……? など、不吉なことばかりが頭をめぐる。それは景も同じなのか、眉間に刻まれた溝は深まるばかりだ。
「……で、俺に何の用? あそこにいること、武知に聞いたのか?」
「あ、ああ……そうだよ」
「あいつ……俺の居場所は絶対に言うなっていってあったのに」
「いや、武知を責めるな。事情を説明して説き伏せて、何とか教えてもらったんだ」
「事情……って?」
「景……」
令は背筋を伸ばし、切なげな表情で景を見つめた。
そして、慎重な口調でこんなことを話し始める。
「景、うちに戻ってこないか」
「……は? なんだよ今更。縁を切ってきたのはそっちだろ。俺の意思も聞かずにフランスに無理やり追いやったじゃないか!! 俺みたいなのが、夜神の家にいたら不都合だったからだろ!?」
兄の言葉に、景は露骨に嫌な顔をして声を荒げた。それを見るや、令は景を宥めるように片手を上げる。
「景、落ち着いて。ちょっと、僕の話を聞いてくれないか」
「話なんて、何があるんだ。俺はもう、夜神の家とは関係ない」
「待て待て、落ち着いて。……これを言い出したのは、他ならぬ父さんなんだ」
「……はぁ?」
父という言葉を聞き、景の表情がまた剣呑なものになる。
理人はハラハラしながら、二人のやりとりを見守った。
「……父さんは口下手だけど、末っ子のお前を誰よりも溺愛していた。あの事件の後……実は父さん、相当参ってたんだよ」
「……え?」
「だからこそ、傷ついたお前をそばで見ていることができなかったんだよ。景を見ていると、犯人を思い出す。奴らがが憎くて憎くてたまらないって、今すぐ殺してやりたいって、何度も言ってて……危なっかしくてさ」
「父さんが……?」
困惑したように景がそう呟くと、令は小さく頷いて、景と同様眉間にしわを寄せた。
「自分が冷静さを保つためにも、それと、景が早く立ち直るためにも、環境を変えるのも一つの手だろうってことで、父さんはお前をフランスにやったんだ。武知を連絡役につけてな」
「……」
「景を噛んだあいつら……さ、何年後かにまた似たような事件を起こしたんだ。その時父さん、とうとう何かがキレちまったみたいで、あんなことを……」
令は痛ましげに顔をしかめ、言葉を切って息を吐く。
「お前がフランスに発った後も、何回かマスコミの奴らがお前の居所を聞きにきたことがあったんだ。だから景のことを尋ねてくるやつがいたら、片っ端から追い払えと、父さんは使用人たちに命令を下していた。……最近、君は景を尋ねてきてくれたろ? あの時は失礼なことをしたね」
「い、いえ……。そういう事情だったんですね」
事情を汲んで頷く理人に笑みを見せた令は、もう一度景を見つめた。そして、ぐっと身を乗り出し、ひたむきな目つきで景に語りかけ始める。
「今回の美園一族の一件……あれ、お前がリークしたことなんだってな。父さんはお前のことをめちゃくちゃ心配してて、もう見てられなくてな。そろそろ意地を張るのはやめたらどうだって、僕と壮 で説得して……それで、これまでのことをお前に話そうと、ここへ呼んだんだよ」
「……」
とつとつと事情を説明する令のこめかみには、じんわりと汗が滲んでいる。景を前に話をすることに、なおも緊張しているようだ。そんな令の姿をはたから見つめていると、なんだか気の毒になってきた。
理人はそっと、景の腕に手を触れる。
「景?」
景はなぜか、呆然とした表情をしている。
不思議に思った理人がそっと景の手を握ると、景は我に返ったように理人を見た。
「いや……父さんには、てっきり失望されて見捨てられたんだと思ってから。なんか……びっくりするやら、ほっとするやら……」
「違うんだよ、景。父さんな、こないだ珍しく酔っ払って言ってたよ。小さいお前に尊敬して欲しくて厳しい顔ばかりしてたけど、本当はもっと遊んでやりたかったって。今もお前と会いたいって、話しがしたいって言ってるんだ」
「……本当に?」
「ああ!」
やや表情を緩めた景を見て、令が前のめりになった。そしてさらに、畳み掛けてくる。
「武知から、お前と理人くんのことも聞いてる」
「……えっ?」
今度は、理人がどきりとする番だった。
オメガ同士で番おうとしていることについて、反対されるかもしれない……と、恐ろしくなったからだ。
だが、令は理人にも笑顔を向けて、勢い込んでこう言った。
「そんな、不安そうな顔しないでください。両親ももう一人の弟も、君にも会ってみたいと言ってます。君のおかげで、景は立ち直れたんだと、武知から聞きました。本当に、なんとお礼を申し上げたらいいのか……」
「えっ!? あ……いやそんな。俺は何も……」
理人が思わず恐縮していると、今度は景の手がそっと理人のそれに重なった。いつもはひんやりと冷たい景の手のひらだが、今はほんのりとあたたかい。
「……理人」
「反対、されなかったんだ」
「そうみたいだね。……良かった。てっきり、兄さんは俺たちを引き離すために接触してきたと思ってたから……」
と、景も安堵の笑みを浮かべている。
手を握り合って見つめあう二人を前に、令は頬を赤らめ頬を掻きつつ、「やだな、そんなことするわけないだろ」と言った。
「まぁ、今すぐに返事はしなくてもいい。落ち着いたら、また連絡してくれないか。理人くんと一緒に、本宅に招待するよ」
令は内ポケットから名刺入れを取り出し、テーブルの上にすっと名刺を置いた。景はそれを指で引き寄せ、しばしそれを見つめていたが、ほどなくしてこくりと頷く。
「……分かった」
「そうか!」
令はほっとしたらしく、気の抜けた笑顔を浮かべた。その笑顔は、驚くほどに景とよく似ている。
ようやく緊張感の消え去ったオフィスの空気に、理人の肩からも力が抜ける。ようやくきちんと呼吸ができるようになったような気分だった。
その時、もう一度ドアがノックされ、先ほど二人をここまで連れてきた男が顔を出した。
「失礼いたします。国城葵様がお見えでございます」
「おお、いいタイミングだなぁ。お通しして」
「かしこまりました。お待ちください」
白手袋の秘書の声に、意気揚々と返事をしている令である。
理人は耳を疑った。
「国城って、言った?」
「……言ったね」
「国城葵様、ってあの……?」
「だろうね。兄さん……どうして?」
と、景がさりげなく居住まいを正しながらそう尋ねた。その様子を見て、理人の心拍数は再び最高潮に高まってゆく。
令は新しいコーヒーの支度を秘書に電話で申し付けながら、景の問いににこやかに答えた。
「少し前まで、国城家の当主だった蓮さまのことは知ってるだろ?」
「あ、ああ、もちろん」
「蓮さまとは高校の同級でね。今回のことでお前のことを心配して、蓮さま直々に連絡してきてくれたんだよ」
「えっ、そうなの?」
「弟の葵くんとも昔からパーティでよく会ってたし、今はビジネスでの付き合いも多くてね」
「すっ、すごい……!!」
と、理人は再び素っ頓狂な声を上げてしまった。令は微笑む。
「景、世話になった礼を言いたかったんだろ? 今日はちょうど葵くんと打ち合わせの予定があったから、それに合わせてお前を呼んだんだ」
「……そ、そうだったのか」
流石の景も、その事実には驚いているようだ。理人もまた同じである。
その時、再びドアがノックされた。
いよいよ、これ以上ないというほど高まった緊張感で、理人の口は一瞬にしてカラカラになった。
「失礼します」
すっと扉が開き、すらりとした長身の男が室内に足を踏み入れてきた。
名前を聞いて、てっきり日本人だと思っていたけれど、スマートな所作でこちらに歩み寄ってくるその人物は、どちらかというと西洋風の顔立ちをしていた。白金色の髪の毛に紺碧色の瞳が鮮やかで、はっとするほどに美しい。挨拶も忘れて、目が釘付けになってしまうほどに。
「葵くん、わざわざこちらに出向いてもらって、すみませんでした」
「いいえ。『ロスメルタ』には一度来てみたいと思っていたんですよ」
「本当ですか? 今度ご招待しますよ! ご家族で泊まりに来てください」
「ははっ、ありがとうございます。みんな喜びます」
軽やかな声で世間話を交わしながら、国城葵は令と握手を交わした。
そして、サファイアのように煌めく双眸が、今度は景と理人の方へと向けられる。不思議とのその瞳は金色みを帯びていて、まるで希少な宝石のようである。
口から心臓が飛び出そうになっている理人とは対照的に、景は普段通り落ち着いた様子で、国城葵と握手を交わした。理人は人知れず、手汗を拭う。
「初めまして。夜神景と申します」
「初めまして、国城葵です。色々と大変でしたね」
「いえ……この度は、方々に手を尽くしてくださって、本当に、本当にありがとうございました」
景は直角に腰を折り、葵に向かって深々と頭を下げた。理人もそれに倣い、「ありがとうございました……!」と礼を述べる。
すると頭上から、「いいえ、とんでもありません。頭を上げてください。座ってお話しませんか?」と、葵から声がかかった。
「そうだよ、そんな姿勢じゃ話もできないだろう? さぁ、景も理人くんも座ってくれ」
と、令に促され、四人でソファに腰を下ろしたものの……。
緊張のあまり、理人はそこから先の会話を、何も覚えてはいられなかった。
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