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第4話

家の最寄駅で降りて、改札を抜ける。酔いを醒ましながら家までの道程をのんびり歩いていたが、どうしても名刺の存在が気になり時間も時間なのだが今すぐ断りの電話をしてしまおうと思った。 名刺には会社と携帯の番号が書かれている。 もう夜も22時を回った。会社にかけても繋がらないだろうと思い、失礼を承知で携帯番号にかけた。 少し長めのコールの後に、低い声で「はい」と応答があった。 この状況になって、自分の名前を相手が知っているのか分からない事実に気付いた。名乗ったところで分かってもらえるのかと考えている間に無言になってしまい、携帯の向こう側から「もしもし?」と探る声が聞こえる。 「あ…遅くにすみません。わたくし、蓮見というものですが、今日…」 『…あぁ、君か。無言だからイタズラかと思った。』 蓮見と名乗っただけなのに、それが永遠の事だと分かったらしく、それには驚いた。 「名前、ご存知なんですね」 『神部さんに君の名前は聞いていたからね。それに、かかってこないかなと期待もしていた。』 「あ…そうでしたか。あの、仕事を頼みたいと蘭子から…神部から伺ったんですが。」 『あぁ。受けてくれるなら連絡してほしいと伝えてもらったんだけど、連絡をくれたって事は引き受けてくれるのかな。』 「いえ、それが…お断りをさせて頂きたくて。でも何も連絡しないのも失礼かと思ったので、念のためご連絡させて頂いたんです。」 『そっか…それはとても残念だね』 思ったよりもあっさりと引いてくれそうで助かった。 その安堵からか、永遠は名刺に書かれている伊吹の名前をみて、不意に「コウ・・・?」とつぶやいてしまった。 伊吹が電話の向こうで小さく笑った音がした。 『すめらぎと読むんだ。確かに難しい字かもしれないが、名刺を見ているならルビが振ってあるだろう。』 言われてみれば確かにそうだ。 「すいません…皇さんはなんのお仕事をされてる方なんですか?…神部の編集する雑誌に載るくらいだから、女性向けの何かなんでしょう?」 『神部さんから聞いてないんだな。美容品メーカーだ。化粧品とか美容液とか、エステサロンに専用の機器を卸したりもしてる。美容と名のつくものには基本的に手を出してるね。』 「へぇ…そうなんですか。」 『化粧水でSUMERAGIは有名なんだが、聞いたことがない?メンズ用も販売しているけど。』 「さぁ…そういうものには疎くて。」 『名刺の左上にロゴがあるだろう。それも見たことはない?』 電車で一度名刺を見た時にそれには気付いた。どこかで見たことがあるなと思ったが、具体的にどことは思い出せなかった。 「見たことはある気がしますけど、どこでかは…」 『うちもまだまだってことか。覚えておいて、きっとどこかで目にすることもあるだろうから。』 「はぁ」 覚えていたところで何の役にも立ちそうにない、とは言えなかったが、その気配を察した伊吹にはまた笑われた。 『まぁいい。それよりやっぱり引き受けてもらえない?今の仕事が忙しい?』 「いえ、今年開業したばかりで、忙しいと言えるほど仕事は入ってきてないんですが…」 そこまで言って永遠は後悔した。伊吹の言葉通りに忙しいと言っていたら簡単に断れたものを、なぜそこで素直に真実を伝えてしまったのか。今更訂正する事もできない。 『忙しくないのなら少しくらい余裕もあるだろう。』 「それは仕事の内容にもよります。そもそも美容品メーカーの方が、どうしてうちに仕事の依頼を?新店舗を建てる予定があるとか?」 『そうではない。…神部さんはその話もしていなかったのか?』 「神部は俺に名刺を渡しただけで内容までは言ってません。俺の職業がインテリアデザイナーだって事は皇さんに伝えたと言ってましたが…違うんですか?」 『違わないが、それでは言葉が足りないな。』 蘭子は何を言われてて、何を永遠に伝えていないのだろう。蘭子がそれを忘れていたのではなく、あえて言わなかったのであれば、それは都合が悪い事だったからに違いない。蘭子にとってか、永遠にとってかはその内容次第だ。 『君に仕事を頼みたいんだよ。モデルとしての君に。』 蘭子が別れ際に言った「ごめん」とは、もしかしてこの事だったのか。と、今更ながら合点がいった。 モデルとしての蓮見 永遠。そんな人物は存在しない。永遠はモデルなどやっていないのだから。雑誌のカバーガールは蘭子の頼みだからやったのだ。それが賭け事で決まった事であっても、蘭子だから永遠はこの話を引き受けた。これが別の、よく知りもしない相手からの頼みだったら100%断っている。つまり、伊吹の仕事の依頼は100%、受け入れられない。 「無理です。モデルって何故。俺は本来インテリアデザイナーを生業としているのは知っているじゃないですか。あれは蘭子だから受けただけで、誰に頼まれてもやる訳ではないんです。」 『そうだろうね。神部さんも君は絶対に断ると言っていたし。でも、私は君ではないと困る。』 「どうしてですか。」 『それには色々と理由があるが、一番まともな理由としては、君にうちの製品の広告モデルをしてもらえれば間違いなく売れるから、という事だ。』 まともじゃない理由もあるのか? 「広告モデル?」 『CMなどで見たことがあるだろう?女優がその化粧品を使って肌が綺麗になったとか、-5歳肌がどうとか言っていたりするのを。あれをうちの製品で君にやってほしいんだ。』 そういう類のCMは何度も見たことがある。今が旬と呼べる俳優がすっぴんにも似た顔で、鏡に向かって何やら話しかけるのがお決まりのCMだ。俳優にとってはそのCMの広告モデルに抜擢される事が人気の証でもあるし、製品を売る側としてはその人気にあやかって商品が売れてくれるのでお互いに利益があるのだろう。 永遠はそういうCMを見た事はあるが、もちろん興味があって見ていたわけではない。 「そういう広告や宣伝は見たことがありますけど、それはちゃんとしたモデルや俳優を起用しているでしょう。俺はただのインテリアデザイナーで一般人なんです。そういう業界とは無縁の人間なんですよ。」 『でも雑誌の表紙はやったじゃないか。』 「それは今回だけです。シークレットだから素性がばれることもないし、今後また起用される事もない。蘭子ともそういう約束で受けました。」 『そう、シークレットだったね。』 「…えぇ」 『それは、バラされると困るという意味だ。そうだろう?』 シークレットー秘密というものは基本的にはそういうものだ。それには期間があったり、特定の人に限る場合もあるが、今回の件については関係者以外の全ての人にバレてはいけない。もしバレた場合、困るのは永遠と蘭子だ。特に蘭子の場合は蘭子一人の問題ではなくなってしまう。話題を呼ぶために仕掛けた企画は全てが水の泡だ。 「あなたまさか、バラすだなんて言わないですよね。」 『それは君の出方次第だ。シークレットガールが君で、しかも男だとバレて困るのは私ではない。』 実に卑怯なやり口に、永遠は怒りを覚えた。 最初からそのつもりだったのか。もし永遠が断りの電話を入れてなければ、この話もなかったのだろうか。 もしそうならこれは完全な藪蛇だ。 この人は自社の製品の為なら、こういう姑息な手段に出るような人間なのか。自分に利益さえあれば、相手がどれだけ損をしようとも気にならないのだろうか。 だからこんな卑劣な駆け引きが出来るのか。 それにこれは、駆け引きというよりただの脅しだ。 永遠は通話中ずっと持っていた伊吹の名刺を握りつぶした。 「なんでそんな事ができるんですか?」 『それは色々ある理由のどれかのせいだろうな。』 「なんですかそれは。」 『それはまだ言えない。でも言っただろう、君でなきゃならない理由が色々あると。私は何もただの出来心で君にお願いしているわけではない。君だから真剣にお願いしているんだ。』 「お願い?脅しの間違いでしょう。」 『君からしたらそうだろう。だが、だったとしたら君はどうする?脅されていると分かって、それでも拒否するのか?』 感情のままに応えるのならそれはイエスだ。脅しになんて屈しない。嫌なものは嫌だし、モデルでもないのにそんな仕事をする意味が分からない。 永遠にとってこれは、百害あって一利なしだ。それでも蘭子の事は守りたい。蘭子の「ごめん」にはこの脅しの事まで含まれてはいないだろう。この人がここまでする人だったとは、蘭子も知る由がなかったはすだ。 もし知っていたのなら、こうなる前に蘭子は伊吹の名刺を永遠には渡していない。 モデルとしての永遠に仕事を頼みたいと言われた事は言えなかったようだが、そうと知っていても永遠に名刺を渡したのは、蘭子から見てこの人間は悪い人間ではないと判断出来たからだろう。 果たして蘭子に見せた姿が本物か、永遠を脅してまでモデルをさせようとするこの姿が本物か、永遠にも全く分からない。 どちらにせよ、現状は最悪な男だが。 永遠はしばらく携帯を耳に当てたまま、無言でその場に立ち尽くしていた。 『今すぐ答えるのも難しいだろう。明日まで猶予をあげよう。この仕事の依頼を受けるのか、受けないのか。明日の昼まで考えると良い。』 「……」 『今日はもう遅い。夜道には気を付けなさい。』 そう言葉を残して伊吹が通話を切った。 きっと電話越しに街の音が聞こえていたのだ。「夜道には気を付けろ」だなどと心配するくらいなら、脅しこそ掛けないでほしいものだ。 通話の切れた携帯を握りしめ、永遠はその場に立ち尽くす。頭の中ではぐるぐると忙しなく、あらゆる考えが巡っては消えていった。 人通りも少なくなってきたその場所で、握りしめたままの携帯が短く震えてふと我に返った。 画面を覗き込むと、帰宅した蘭子から「今日は本当にありがとう」という連絡が届いていた。

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