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第5話

永遠は帰宅してから簡単に寝支度を済ませてベッドに入った。けれど伊吹との電話の事が頭から離れずあまり寝つけない。何度も携帯の画面に触れ、発信履歴を確認する。未登録の番号が永遠に現実を突きつけた。 なんで電話なんかしちゃったのかなと後悔すらした。 気付けば窓の外は、薄く色づき始めている。 「はぁ…最悪」 深いため息をついて寝返りを打つ。そんな事の繰り返しだ。 蘭子から届いた「ありがとう」の返事も、いまだに返せていない。 伊吹の依頼の事を知ったら、蘭子は間違いなく気にするだろうし、自分を責めるに違いない。けれど、立場上は伊吹に文句をいう事も出来ないだろう。永遠としては蘭子を困らせるのは絶対に避けたい事だ。だが、ああだこうだと悩んでいても、今日の昼までには決めなきゃならない。 伊吹の仕事を受けるか、断るか。 また深いため息を吐いて、永遠はベッドから起き上がった。 キッチンでコップ一杯の水を一気に飲み干す。それから、携帯の発信履歴を開いて、未登録のままの伊吹の電話番号を押した。 今回は2コールで伊吹が応答した。 『モーニングコールにしてはやけに早いね。』 冗談とも抗議とも言える伊吹の言葉を、永遠は聞かなかった事にする。 「おはようございます。…昨日の仕事の話ですが、やっぱり引き受けます。」 『そうか、それは良かった』 「だから、約束は守ってもらえますか。」 『秘密は口外しないと誓うよ。』 「それと、俺の本来の仕事を優先します。都合が合わない時はそっちの仕事は出来ません。」 『かまわない。こちらの仕事も毎日やらなければならないものでもないしね。ただ、その為にやってほしい事はある。』 「やってほしい事…ですか」 『あぁ。それについては…そうだな、今日は君、仕事があるの?』 今は一般顧客からマイホームの建築依頼が来ている。前回依頼を受けて、ネイルサロンの新店舗のデザインをしたそのオーナーからの紹介で、一般客から新築デザインの依頼が入ったのだ。 顧客繋がりで仕事が入るのはありがたい。ネイルサロンのオーナーが、永遠の仕事に満足してくれたという事も何より嬉しかった。 マイホームのデザインは概ね決まりつつあるのだが、唯一お風呂場のタイルを何にするかが決まっていない。色や素材を見てから顧客には提案したいので、いくつか業者にサンプルを送ってもらっている。それがまだ届いておらず、仕事を進めるにも足踏みせざるをえない状況だった。 「いえ、今日は空いてますが…」 『そうか。余裕があるのなら一度本社に来てくれないか?そこでこれからの仕事内容と、君の意見を聞きたい。出来る事と出来ない事はそこで話し合おう。』 「…わかりました。名刺にある住所に行けばいいんですか?」 『あぁ。…あー、いや、やはり別の場所にしよう。迎えに行くから君の家の住所を教えてくれ。』 「え、いや、その場所を教えてもらえればこちらから伺います。」 『家を教えるのは嫌?でも仕事を受けてもらえるなら住所くらいは聞かなきゃならないけど。』 「別に嫌なわけでは…」 『なら教えて。仕事はこっちから君に頼むのだから、送迎くらいして当然だ。』 そう言われればそうなのかと思うが、相手は一企業の社長だ。 家の場所を教える事は嫌ではないが、来てもらうのはやはり気が引けた。どちらがいいのかと悩んでいたら、『別にこれからずっとそうするわけじゃない。』と言われ、それなら今回だけ来てもらおうかと思った。 車を持たない永遠は、距離があれば電車やタクシーなどを使わなくてはいけない。それは金銭的にも時間的にもあまり融通が利かない。正直に言えば、来てもらえる方が助かる。 永遠が自分の住所を伊吹に告げると、『今日の昼頃に迎えに行く。』と伊吹は言った。 通話を切り永遠は再びベッドに倒れこんだ。 うつぶせのまま、握りしめていた携帯の画面を見る。 伊吹からの仕事の内容がどうであれ、この事を蘭子に言うべきか悩んだ。蘭子に被害が及ぶ事はないようにしたが、伊吹の会社の宣伝モデルをやっていれば、いずれ蘭子の目もに触れる事だろう。 そうすれば蘭子が気に病んで、罪悪感を抱くのは目に見えている。本当に蘭子は関係ないと言ってあげたいが、あの責任感と正義感を前にはその言葉にはなんの効力もない。 とは言え、脅しを前に「引き受けない」という選択肢はなかったのだから、永遠にはどうする事もできない。 何かのきっかけで知られるよりは、最初から伝えておくべきかと思い、蘭子へのメッセージを携帯に打ち込んだ。 ◆◆◆ 《何それ、本当の話?》 蘭子からそう返事が返ってきたのは、永遠が朝方に連絡してから2時間後の事だった。永遠は寝ていなかったこともあって、伊吹の依頼の事を蘭子に送った後は知らぬ間に眠りに落ちていた。蘭子からの通知音で目が覚めて、まだまだ眠気の残る頭で携帯に映るその文字を見た。 永遠はこの文面だけで蘭子が怒っている事に気付いた。いつもあるはずの絵文字や顔文字が何一つないからだ。 《本当。まだはっきりと内容は聞いてないけど。昼に会うからその時に聞く。》 永遠がそう返事を返すと、またすぐに返事が来た。 《私のせいでごめん。本当だったら私もその話し合いに参加したい。》 だが、それが出来ない事は蘭子も分かっている。だから歯がゆい気持ちを抱えているだろうが、蘭子にはあまり気にしてほしくはない。脅しがあったにせよ、仕事を引き受けると決めたのは永遠自身なのだから。 《蘭子のせいじゃない。俺が決めた事だし、今のところ俺にもおいしい話だから。》 永遠にも利益があったから。そう言えば蘭子の気持ちも楽になると思ったが、効果の程は分からない。 《…変な事言われてないわよね?》 《変な事が何か分からないけど、言われてない。普通に仕事の話。》 《何かあったらすぐ言ってよ?永遠が困る事はさせたくないから。》 《了解》 蘭子は昔から永遠の為に気を揉んでくれる。それは時に友人というより姉弟のようで嬉しい。永遠には兄弟がいないから尚更だ。 蘭子との事が落ち着いて少し気持ちが楽になった。伊吹が迎えに来るまでにはまだ時間がありそうだったから、永遠はまた少しだけ仮眠を取る事にした。ほんの少し休めればいい。その程度のつもりが、深い眠りについてしまっていた永遠は携帯の着信音と振動で目が覚めた。 目を開けた瞬間から「まずい」と頭が理解して、慌てて携帯を見ると、やはり着信は伊吹からだった。 「もしもし!」 『お迎えに上がったわけだけど』 「あの、ちょっと待ってて下さい!」 永遠は慌てて部屋を出る。マンションの下には名前は知らないが高級そうな外車が停まっていて、ここら辺では見かけた事もないようなそれが伊吹の車だと一目で分かった。 「すみません、皇さん。まだ準備できていなくて。とりあえず一度部屋に上がって待っててもらえませんか?」 永遠の顔を見て伊吹が緩く口角を上げると「そのようだね」と笑う。 その理由は部屋に戻って鏡の前に立った時に理解した。 類を見ない荒れたヘアスタイルに永遠は悲鳴をあげそうになる。 「すみません、すっかり寝てしまって。すぐに準備をするので座って待っててもらえますか?あ、何か飲みます?」 「いや、かまわない。」 それよりも準備を優先しろと言いたげな顔だった。 「すいません、急ぎますので。」 そう言う永遠に伊吹は片手だけ挙げて返事を返すが、意識はすでに別のところに向いているようだ。リビングにある小ぶりな本棚の上に、インテリアデザイナーや二級建築士の資格証明書、学生時代にあった校内のデザイン大会で優勝した時の賞状などが飾られている。伊吹はそれを見ていた。 「君、二級建築士の資格は持っているのに、どうしてインテリアデザイナーになったの?建築士になりたかったわけではないのか?」 部屋を右往左往して準備する永遠を、気に留めることなく伊吹は聞いた。 「もともとインテリアデザイナーになりたかったんで。建築士の資格は持っていれば働く時には優遇される事もあるし、自分にとっても知識として持っていたかったんで取ったんです。」 「なぜインテリアデザイナーになりたかったんだ?」 「…まぁ、なんとなく。インテリアデザイナー自体は特に取らなきゃいけない資格がないので、建築士よりははるかになりやすかったっていうのもありますけど。」 「そうなのか。でもそれだと矛盾してないか?資格がないからなりやすいのに、結局二級建築士の資格は取ってるじゃないか。」 「えぇ…まぁ」 インテリアデザイナーを目指した理由にはもっと明確な理由があるが、それを語るには必ず付随するあまり語りたくない過去がある。だから永遠はその理由を極々限られた人にしか話したことがない。前の職場に居た時も、雇ってくれた先輩や同僚に言ったことはない。 この世界でそれを知るのは蘭子と孝明だけだった。 「まぁ、理由がなんであれ、目指すものがあるのは良い事だな。」 伊吹は棚を見つめながら、少し寂しそうな笑顔を見せた。 その理由が分からなくて「あなたはなりたくてその仕事をしているんじゃないんですか?」と聞いてしまった。 伊吹は「いや、なりたかったさ。」と呟いた。 だったら何故、と聞きたかったが、伊吹の顔を見ているとそれ以上詮索するのは憚れた。 ◆◆◆ 「お待たせしました。行きましょうか。」 「あぁ。ヘアスタイルも問題ないな。」 雑誌を読みながら待っていた伊吹は紙面から顔を上げてそう言った。 「当たり前です。あんなヘアスタイルでインテリアデザイナーなんて名乗ったら、仕事なんて来ませんよ。」 本当に美的センスの欠片もないほど乱れた髪だった。 それを思い出したのか、伊吹はまた短く笑った。

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