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第7話
その後も乳液のつけ方はこうだとか、その後にはマッサージをしろだとか、とにかく非常に細かく指示がありレクチャーされた。今までまともに手入れをしていなかった永遠には、自分で言われた通りに出来る気がしなくて憂鬱になる。
それに少し、面倒だとも。
ひとしきり顔のマッサージを受けた事で、さらに眠気が増して頭がぼんやりとする。伊吹が笑いながら「この後予定が無いのなら寝て行くといい。」と言って、ベッドのある客室へと案内された。伊吹は別室で仕事をするというので、永遠はお言葉に甘えて寝かせてもらう。
「起きたら声を掛けてくれるか。君に持って帰ってもらわなきゃならないものがいくつかあるからね。」
「…わかりました」
「じゃあ、おやすみ。」
「おやすみなさい…」
まだ昼間を過ぎた頃なのに、おやすみと挨拶を交わすのは不思議な感覚だが、それよりも今は目の前のベッドに早く入って眠ってしまいたい。
見るからに高級そうなシーツに肌を滑らせる。今はそのシーツの冷たさが心地よく、それが徐々に自分の体温と混ざって行く頃には、永遠は深い眠りに落ちていた。
◆◆◆
夢を見た。
小さい頃、母と住んでいたアパート。
窓から見える外の世界は酷く狭く、暗く、空はない。
けれどそこには人の生活があった。
隣の家のカーテンから漏れる微かな光。
そこにいる、父と母と子供たちの家族。
憧れだった。
自分にはないもの。
母の帰りを待つ永遠はいつも自分で作った飾りで部屋を綺麗に飾っていた。
帰ってきた母がそれを見て見せる笑顔が永遠は何よりも好きだったから。
ハッと目を覚ました時、心に残されていたのはあの頃を思う寂しさではない。あの頃を懐かしいとも思わなくなった。戻りたいと思うような過去でもなく、消し去りたい過去でもない。ただの自分の人生の一部だ。不幸だとも、幸せだったとも思わない。自分の中であの思い出がどうしてこんなに遠いものになってしまったのか自分でも分からないが、何より大好きだった母のあの笑顔を思い出せない自分に、悲しみと憤りを感じるのは確かだ。
「起きたのか?」
たまたま部屋に入ってきた伊吹が静かに声を掛けてきた。
「えぇ、すいません、随分と寝てましたか?」
「1時間程だ。今日はあまり眠れてなかったんだろう?まだ寝ていてもいい。」
「いえ、もう帰ります。だいぶすっきりしたので。」
「そうか。では送ろう。」
「大丈夫です。自分で帰ります。そんなに遠くないって分かったので。」
「そういうわけにはいかない。来てもらったのはこちらの方だから、送迎はちゃんとさせてほしい。」
伊吹は何を決めるにも強引だ。だが、ありがたい申し出ならそれも悪くないが。眠気はすっきりしたが夢見のせいか体はだるい。送って貰えるのならこの際甘えてしまおうと、永遠は「じゃあ、よろしくお願いします。」と言って頭を下げた。
「君に持って行ってもらう物を準備をする。少し待っていてくれ。」
「はい。」
伊吹が先に部屋を出て、永遠はそれから少し遅れてベッドから降りた。乱れた布団を整えたが、金持ちの家だったら誰かが一度使用したらシーツ類はすぐにクリーニングに出すのだろう。次の人に使用済みを使わせるなんて事をするとは思えない。
リビングに戻ってソファーでぼんやりと待っていると、伊吹が紙袋を持ってやって来た。
「これはさっきの化粧水と乳液、必要なコットンもいれてある。それから一応洗顔とフェイスタオルも。やわらかいから肌に良い。」
「あ、ありがとうございます。」
「いや、ありがとうはこっちのセリフだ。脅したとはいえ、君が引き受けてくれて本当に良かった」
「いえ…」
そう言えば自分は脅されてここに来たのだった。いつの間にそんな事も忘れて伊吹と普通に会話をしている。いがみ合おうというわけではなかったが、良い人だとも思っていなかったのに。だけど、あの心地よさに毒気を抜かれてしまったというのもある。
人の肌に触れるあの手は、冷たい人の手ではなかったからだ。
こんな事を蘭子に言ったら、きっと怒るのだろうなと永遠は苦笑した。
「どうした?」
「脅されてたなんてすっかり忘れてたので。朝方まで悩んでたのが嘘のよう。」
「やっぱり寝不足だったんだな。朝早くに連絡があったからもしかしてと思っていたが。」
「さすがに悩みますよ。蘭子に迷惑は掛けたくないし、かと言ってモデルなんて仕事は俺の本意でもない。人前に出るのはもともと好きではないから向いてないんです。でももし断って俺の素性がバレたらって考えたら、引き受けるしかないなって。皇さん は分かっていたと思いますけど。」
「俺もそこまで君を追い詰めたかったわけではなかったけど、どうしても君にこの仕事は引き受けてもらいたかった。だから汚い真似をした。正直、君に断られたらどうしようかと思っていた。他に良い策も思いつかないし、君の気を引けるものが分からないからな。」
「もし俺が断っていたら、バラしてましたか?」
「いや、バラすつもりはなかった。神部さんの雑誌が売れてくれなければ、うちの新商品の特集を組んだ意味もない。あのモデルが男だと知って興味本位で買ってくれる人もいるだろうが、どちらかと言えばシークレットのままの方が話題性がある。あの美しさだ。誰だって素性が気になる。君の事を秘密にしておくのはうちの会社にとっても好都合だったという事だ。」
伊吹が得意気な表情を見せた。
言われてみれば同じ雑誌に特集を組んでいたのだから、確かに話題性を奪うような真似をするはずがない。どうしてそんな事にも気づかなかったのかと、永遠はため息と共に唸り声をあげた。
「君が優しい子で良かったよ。」
「釈然としないですね。優しいっていうか、頭が悪いだけじゃないですか。」
「まさか。君の優しさがなければ成立していない話だったさ。さぁ、送って行こう。君の機嫌が悪くならないうちにね。」
「もう十分悪いですけど。」
「謝るよ。お詫びに今度は何かをごちそうさせてくれ。」
「今からモデルの件、断るってのはダメですか?」
「ダメに決まっているだろう。それに君は契約書にもサインをしただろう。契約破棄をするならそれなりの代償を支払ってもらうぞ?」
「やってもやらなくても代償を支払うようなものじゃないか。」と、永遠はふくれっ面を見せた。どちらにせよ、脅されているのとは変わりはないが、これに関しては伊吹が楽しんで言っているだけで実行するつもりがないのはよく分かった。
「素性がバレないのならもういいですよ…ただ、この化粧水とかのやり方は本当に守らないとダメなんですか?」
「もちろんだ。何のために君に教えたと思うんだ。」
「俺もともとそんなに手入れしている方じゃないし、まめなタイプでもないから続くかどうか…仕事で徹夜したりする日はそんな事をやる時間も惜しかったりするんです。仕事を受けた以上は出来るだけやりますけど、皇 さんが望むレベルで出来るかどうかは分からないですよ。」
永遠の言い分が分からないわけではない。
これまでもやり方をレクチャーしてきた過去の女性たちですら、その手順や準備が面倒だと言っていた。
「気持ちは分かるけどそれだとうちの商品の効果がしっかり出ているとは言えないし、それなのに君をモデルにして商品を使った効果だと宣伝したら嘘の広告になってしまう。」
「それは問題ですね…俺も嘘はつきたくないし、それで売り上げが上がったとしても報酬を受け取るわけにもいかないし。でも、本職の仕事に影響が出るのは正直困ります。」
やれるだけの事はやるが、今までの経験上、依頼人へデッサンなどを提出する締切が近くなれば徹夜をする事もあるし、そうでなくてもインスピレーションがわいた時には、時間など忘れてデッサンを描く時もある。思いついた時がやりたい時なのに、そんな時に化粧水がなんだと気にしている余裕はない。それでもやらなければならないと言うのなら、それは永遠にとって本職を脅かす契約違反になる。
「困ったな。君の仕事に影響を与えてしまうのは問題だが、かと言ってこちらの仕事を受けてもらった以上は、最低限やってもらわなきゃいけない事もある。本当ならその生活習慣の乱れも直してもらいたいくらいなんだ。肌にとっては生活習慣の乱れこそが天敵だからな。」
だが、そこまでの強要をするつもりは伊吹にもない。少なくとも今はその生活習慣の乱れが彼の肌に何の影響も与えていない。だからこそより効果的な使い方を永遠に伝授したのだ。
「どうだったら出来るんだ?ただ塗るだけはダメだが、それ以外に君の手を煩わせない方法があるなら検討する。」
「んー…と言っても他にどうしようもないですけど。やらないのが一番。やるならやれる時だけとか。忙しくないなら丁寧に出来ますけど、それは仕事次第だから何とも言えないです。」
「それでも眠りはするんだろう?その前に少しだけ時間を割いたりは出来ないのか?」
「限界が来たら寝ますよ。でもそれがいつなのかは俺にも分からないです。3日寝ないで仕事してた事もあるくらいですから。」
「3日…」
どうしてアーティスティックな人にはこういう人が多いのだろうかと、伊吹は首を傾げてしまう。伊吹はどんなに仕事が忙しくても定期的に休憩は取るし、ご飯も食べるし、眠りもする。生活習慣が乱れるほど仕事に時間を費やしすぎることがない。
だが、そういう仕事の仕方をする人がいるというのは知っている。特にそれは芸術や創作をする人に多いと認識している。それが所謂 閃きというやつなのだろうが、伊吹にはその感覚があまりなかった。
「君、そんな仕事の仕方をして体を壊したりしないのか?」
平均男性よりは線が細く、女装してモデルが出来るほど華奢な体躯の永遠だ。それが不健康に見えているわけではないが、少しでも生活が乱れたものなら、すぐに体調不良を起こすと言われても不思議には思わない。
伊吹には永遠はそれほどか細く儚げに見えていたが、当人はいたって健康的で風邪も滅多に引くことがない。たまに引いたかと思えば、大して大事にもならずに気づいたら治っているくらいのものだ。儚いなどとは遠く離れた健康体だ。
「全然。風邪だってここ数年引いてないです。毎年の健康診断でも何一つ引っかかった事もないですよ。」
ここ数年、「もっと喫煙を控えるように」と言われた伊吹とは大違いだ。
「だからと言ってそれでいいというわけでもあるまい。君、食事はどうしている?作ってくれる人はいるのか?」
「いえ、大体は自分で作るか、外食か、面倒ならコンビニか食べない時もあります。」
「だろうね。生活習慣が乱れているのに食事だけしっかりしているとは思えない。」
「じゃあなんで聞いたんですか。そういう皇さんは作ってもらってるんですか?恋人とか、専属のシェフとかに。」
「どっちもいないね」
「じゃあやっぱり外食ですか?」
「仕事で行く事はあるけど、個人的に行く事はほとんどないね。専ら自分で作っている。」
「へえ、お金持ちでも自分で作る事はあるんですね。」
「凄い偏見だな。金持ちだって料理が好きな人はたくさんいるよ。ドラマでは専属シェフとかそんな事もよくある話だけど、俺はそもそも他人が自分の家にいる事が落ち着かなくて嫌なんだ。」
永遠は「へぇ…そうなんですね」と呟いたところではたと気づく。
そのわりにはほとんど初対面の永遠を自ら招き入れているのはどうなのだろうかと。
「え、すいません、長居してしまって。」
永遠は慌ててソファーから立ち上がり、帰り支度を始める。渡された化粧水が入った紙袋を引っ掴んで出て行こうとしたところで、伊吹に笑いながら引き留められた。
「ちょっと待て。君の事は俺が自分で呼んだんだから嫌なわけがないだろう。君に部屋で休むように言ったのも俺だよ?君には何も悪いところなんてないじゃないか。それにまだ大事な話が終わっていない。このまま帰られたんじゃ俺も気が気じゃない。」
「…そ、そうですよね…それで結局どうしたらいいんです?」
「そうだな、本当だったら寝る前にやってくれと言いたいところだが、そういうわけにもいかないらしいし…他にも簡単な解決策ならあるが、君は嫌がるだろうからな。」
「嫌がりそうな事なら聞きたくない気もしますけど…」
でもそれ以外に解決方法もない気がして伊吹を横目で見ると、少し気まずそうな顔をしながら「嫌ではなかっただろう?」と聞いてきた。
嫌がると言ってみたり、嫌ではないかと聞いてきたり、一体何のことか分からずに永遠は「え?」と聞き返した。
「俺にマッサージされるのは嫌ではなかっただろう?」
「え、あぁ、まぁ、気持ち良かったくらいです。」
睡眠不足の影響もあったが、そのマッサージのおかげで結局寝かせてもらったようなものだ。
「だったら…俺がしようか、と。」
伊吹の申し出に永遠の表情が固まった。伊吹にやってもらえるなら間違いはないし、寝る前の時間にやってもらったとして、最悪そのまま寝てしまったらそれはそれでいいかも知れない。だが、実際いつ寝るかはその時次第だし、そうなった時に伊吹を家に呼ぶのか、永遠が伊吹の家に行くのかどちらかになる。今から寝ようという時に、二駅離れた他人の家に行くなんて面倒な話はない。かと言って、今から寝るんで来てくださいというのもおかしい。寝る前じゃなければ良いのかと考えても、いずれにしてもどちらかが出向く必要があって、それのどこが解決策なのか分からない。
むしろもっと面倒な話ではないか。
「…それは…」
「君が何を考えてるかは分かる。それじゃあ上手く行かないと思うだろう?」
「えぇ、無理だとしか…」
「だが一つそれを可能にする方法がある。」
可能性があるのなら是非、とそれが何かと聞いてみた。
「君が俺の家に住めばいい。そうすれば君が寝る前にやってあげる事は出来るし、君もその事を気にしなくてよくなる。それに、もし君がうちに住むようになれば、君の生活習慣で不足しているところを補う事も出来る。例えば料理とか。俺が作ってもいいし、体に良いものを頼んでもいい。君にとっては良い事ばかりの筈だが…そうだな、君に不利益があるとすれば、他人の家に住むストレスというところか。それがどれくらいのものかは人それぞれの感じ方だからね。俺には君がどう思うかまでは分からない。他の利点を蹴ってでも嫌だというのであれば、それはまた別の方法を考えるしかないが…どうだろう?」
永遠にとって他人の家に住むという事は、世間の平均的な感覚よりは柔軟に出来ている方だと自分で思っている。全く抵抗がないかと言われるとさすがにそこまでではないが、今までの経験から新しい環境に馴染む事には慣れていた。
伊吹からの提案は両手を上げて喜べるものではないにしても、自分で化粧水をつけたりマッサージをするよりは現実的な話だ。
それに食事に困らないのはとてもありがたい。
「その話、乗らせてもらいます。」
「…いいのか?君なら断るかと思ったが。」
「仕事もここでやっていいんですよね?」
「もちろんだ。君の仕事には支障が無いよう考慮する。」
「だったら何の問題もありません。」
「そうか。ならいつから来れそうだ?うちは今日からでも問題はない。」
「…そうですね。一応仕事の道具を少し持って来たいので、明日からでもいいですか?」
「かまわないよ。荷物を運ぶなら俺も手伝おう。準備が出来たら連絡をしてくれ。迎えに行く。」
一度に全てを運ぶのは難しいだろうが、電車を使って運ぶよりは車を出してくれた方がありがたい。それには永遠も頭を下げて願い出た。
「良かった。これでひとまずは問題解決だ。」
「そうですね。じゃあ、明日からよろしくお願いします。」
「あぁ、こちらこそ、よろしく。」
伊吹が差し出した手を、永遠は少し躊躇いながら握りしめた。
すると骨ばった大きな男の手は、ぎゅっと永遠の手を強く握りしめた。
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