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第8話
「嘘!引き受けたの!?」
「うん。」
「なんで!」
「だって、お金くれるって言うし。」
「お金って…別に困ってないんでしょ?」
「まぁ…」
「もう、何よその返事。…脅されたりとかしたんじゃないわよね?」
「…いいや。お互い利害が一致したってだけ。」
昨日に続き今日も仕事終わりの蘭子といつもの居酒屋に呑みに来ていた。そこで今日、伊吹の家に行き仕事の話を聞いてきた事と、それを了承した事を伝えたのだ。
利害が一致しただけという永遠 の言葉を蘭子は完全に信じていなかった。明らかに永遠の中の何かを探ろうとして、鋭い目つきを向けてきた。だが、永遠も蘭子との長い付き合いの末、そういう仕草の意味を理解している。悟られないようにするのは簡単だった。
「絶対断ると思ってたのに。」
「でもそれだと心配だったんじゃないの?もしかしたらシークレットをバラされるかもって。」
「まぁ、少しはね。でもあの人だって一企業の社長をやるくらいだもの、そういうリスクとかは分かってるんじゃないの?私個人が訴えたってハエを掃うかのように叩き落としてくれるでしょうけど、さすがにうちの会社が皇 さんを訴えたなら、多少の痛手はあると思うし。」
蘭子の勤める出版社はそこそこ名の知れた出版社だ。雑誌に留まらず、ファッション関係以外にも実用書や資格、色んなブランドとのコラボグッズなど、多彩に商品を販売している。読者はあまり出版社など気にしないだろうが、それでも企業名くらいは聞いたことがある人は多い。伊吹の会社の規模は子会社を含めると日本に留まらず、世界各地に点在しているためかなり大きなものではあるが、それでも有名な他企業に訴えられればその分の癖はついてしまう。伊吹がそれを分かっていないはずはなかった。
「あ―…そうだよねぇ。なんで気付かなかったんだろう。」
「何よ、やっぱり脅されてたの?」
「脅されてはないけど、まぁ俺が勝手に気にしたっていうのはある。皇 さんはバラすつもりはないって言ってたから、本当にそんな気はなかったんだと思う。なんか心配して損したなぁ…」
眠れなかった昨夜の事を考えると、どうして自分は相当テンパっていたのかも知れないと思った。酔っていたという事もあるかも知れないが、伊吹に電話した時はあまりうまく思考が回っていなかったのは事実だ。これは伊吹が永遠を引っかけたというよりは、永遠が勝手に引っかかったに近いのかもしれない。伊吹は「引っかかってくれてよかった」と言った。伊吹にとっては永遠にかなりの逃げ道を与えてくれていたのじゃないかと、今更に思い至る。
ビールを一口煽った蘭子が「で?」と聞いてきた。
「何が」
「大丈夫なの?そのモデルの話。」
「まぁ、大丈夫でしょ。シークレットがバレないように、アングルとか構図も考えるって言ってたし。」
「そっちの話じゃないわよ。それはちゃんとやってくれるだろうっていう信頼は不思議とあるの。じゃなくて、永遠自身の話よ。その皇さんの商品を使ってから永遠を広告に使うって言うんでしょ?もしそれを使って今とあまり変化がなかったらどうするの?」
「そんな話はしなかった。自分の商品に自信があるから、変化がないなんて思ってないんじゃない?」
「そんなのは人それぞれよ。ケアの仕方もちゃんとやらないと効果は全然変わってくるし。そのやり方は今日聞いてきたんでしょ?」
「うん。女の子って面倒な事してんのね。俺には絶対無理だと思った。」
蘭子も永遠が普段は自分への手入れを怠る人間だと言うのは重々承知している。最初は良いかも知れないが、段々手抜きになっていく事については永遠より蘭子の方が永遠の性格を理解している。そんな人間が伊吹の商品を使って、もし効果が出なかったらどうなるのか。蘭子はその先を想像して体がぶるっと震えた。
「今からでも遅くないんじゃない?その仕事断った方がいいわよ。」
「無理。やるって言ったのにもう断れない。」
「違約金とか発生しちゃうの?」
「そんな契約はしてないけど、一応サインはしたし、あの人には打開策を打ってもらったから。」
「打開策?」
「そう、明日から俺、あの人の家に住む事になった。」
永遠はそれを日常の何気ない事、例えば「ちょっと友達の家に遊びに行ってくる」とでも言うように、事も無げに言ってのけた。打って変わって蘭子の方は驚愕の表情で、咥え損ねた串を口の前で止めたまま静止していた。
「…ねぇ、嘘でしょ?」
「嘘じゃないよぉ、本当。」
「展開が急過ぎる!」
「なんの展開?」
「あの人とあなたの関係!何があったらそんな事になるのよ?」
「え、だから」
「違う!」
「まだ何も言ってないじゃん。」
「そうじゃなくて、その打開策がどうして通っちゃったのかって事よ!」
「えーだって自分じゃ無理だよ。皇さんは家に住めばやってくれるって言うし、家は広いから仕事するにも困らなさそうだし。食事とかも作ってくれるっていうから、楽だなーって思うしさ。」
どうしてか時折見せる永遠の楽天ぶりに蘭子は頭を抱えた。本当に極々たまに、どうしてここでという場面で永遠は抜けている時がある。
「永遠…私、あなたの事好きよ。男臭くないのに男らしいところがあったり、繊細そうに見えて結構強かったり、なのにたまにぼんやりして抜ける天然っぷりを発揮したりね。でもね、今はダメよ。それは、ダメ。いい?いくらあのSUMERAGIの社長という立派な肩書のある人でもね、初対面の人の家に住んではダメなの。分かる?」
まるで子供に言い聞かすような言い方をするので、永遠は少し首を傾げて話に聞き入った。
「どうしてダメ?お互いの利害は一致してるのに。」
「あのね、利害が一致していても、踏み越えてはならない一線って言うのがこの世にはあるのよ。特にあなたはね、そういう決め方をして今までに良い思いをした事があった?」
「うーん…あったと思うけど」
「いいえ、ありません。高校生の頃、普段話もしない同級生にいきなり声を掛けられて永遠はその人について行ったわね。その時彼はあなたになんて言った?」
「そんなことあったかな?」
「『明日の追試で平均点以上取らないとまずい事になるから、うちに泊まりに来て勉強を教えてくれないか?』よ!」
「よく覚えてるね」
「当たり前でしょ!その後あなたは『別にいいけど』って言って彼の家について行ったのよ!なのにその日の夜に起きた事は何!?危うくレイプされるところだったじゃない!」
「そんな大きな声で言わないでよ。」
昔の事ではあるが、蘭子にとっては本人よりも許しがたい事だったらしく、その熱は冷めるどころかますます上昇していく。
「大学生の頃には路上でナンパされて『美味しいもの食べれるから行こうよ』っていう、在り来たりな台詞にまんまと引っかかって見るからに怪しげなお店に入ろうとしたり、社会人になってからも取引先との接待で危うく別のご奉仕をさせられそうになったりしてたわよね!いい?私が言っているのはそういう事にならないための危機管理が必要だって事なの!皇さんがそういう事をするって言ってるんじゃないのよ。だけど、あなたはもう少し自分と言うものを知っておくべきだって言ってるの。」
「…はぁ、一応気をつけてはいるんですけど」
「毎回そう言って変な事に巻き込まれてるのを忘れたとは言わせないわよ。第一、皇さんはあなたを気に入っているのは間違いないでしょう。それがモデルとしてなのか、人間としてなのか、それとも恋愛としてなのかは分からないけど、気に入らない人にモデルを頼もうなんて絶対にない話だわ。」
「だからって皇さんが俺にどうこう思う事はないと思うけど。」
「どうして言い切れるのよ。彼も男なのよ。」
「だからだよ。皇さんは女の人が好きだし、それに女性に困った事はないって言ってた。今はいないみたいだけど、そういう相手ならすぐ見つかるんじゃないの?」
そもそも伊吹が同性を好きになれるのかどうかも分からないし、すでにそうであっても今は公言していないのだから、分かりやすく同性愛者として生きていくつもりはないはずだ。ならば伊吹が永遠に何かしようなどという思惑はないと思った。あればすでに、それなりの兆候はあってもいい。
蘭子が言う過去の出来事があったのは事実だが、むしろそんな事が起きる方が珍しいのではないかと思う。
「…確かに昔はかなりのやんちゃをしていたらしいわよね。彼を特集する前に少し調べさせてもらったんだけど、一時は相手の女性を妊娠させたとかなんとか、そんな話もあったらしいし。それが事実かどうかは分からないけど、相当モテてた事には変わりはないわね。」
「そんな人が男の俺に手を出すなんて考えられない。それなら他にもっといい相手がいるでしょ。」
「そう…ねぇ…でも、永遠はやっぱり特別男の人に好かれやすいから。」
「そうだったかな。」
「そうなの!いつも私よりモテてた事を僻 んだ時もあったわ。そのうち頑張っても無理だって分かって諦めたけど。」
学生時代は蘭子の気になる相手がいつも永遠に密かな恋心を持っている事に気付いて、努力しては敵わないと諦めていた。皆が皆同性愛者だったわけではない。それでも永遠の少し異質とも言える存在感と造形美に、性別を超えた感情を抱くのは当然のようでもある。
永遠を嫌いになれたら楽だったのかもしれない。だけど、蘭子も永遠が好きだった。恋愛という意味での感情を抱く事はなかったが、友人として、親友として、永遠を嫌いになる事は出来なかった。
「俺、蘭子の事好きだよ。」
「分かってるわよ。私も好き。」
傍から見れば男女の睦言に聞こえるかもしれないが、お互いはそれがどういう意味を持つのか、正しく理解していた。
「とにかく、危機管理はしっかりね。皇さんが悪い人とは思わないけど、簡単に人の誘いに乗ってはダメよ。」
「用心するよ。でも今回は仕事の事もあるから、皇さんが無闇に俺に何かしようって事はないし、出来ないと思う。」
「まぁ…そうね。でも何かあったらすぐにやめてよ。連絡をくれたらすぐに助けに行くから。」
「そうする。」
蘭子のそれは両親と似た過保護なんじゃないかと思ったが、あまりにも真剣な姿にそうは言えずに静かに笑った。
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