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第9話
翌日の午前中にはある程度荷物をまとめ、伊吹の自宅へ移動した。迎えに来た伊吹に「随分と荷物が少ないな」と言われたが、必要なものと言っても多くはないし、伊吹の家にいる期間も限定的なものだ。他に必要なものがあれば取りに戻ればいい。それでも段ボール3箱分はあったが、車で運ぶには少ないくらいの荷物で済んだ。
伊吹の自宅についたら永遠が使う部屋を案内された。そこは永遠の自室の仕事部屋よりも2倍は広く使い勝手もよさそうだが、なんだか落ち着かない。寝室は昨日寝かせてもらった客室を使う事になった。
「仕事部屋と寝室を別に用意してもらうなんて申し訳ないです。」
「いいんだ。どうせ誰も使わないし余っているだけだから。ところで俺はこれから会社に用事があるから出かけるけど、君はどうする?ここで仕事をしていてもいいし、自由にしてくれてかまわないよ。もし出かけるなら送っていくけどどうする?」
そろそろ職場に顔を出しておきたいところだったが、まずは持ってきた荷物を片付けたいので、とりあえずここに残る事にした。
「そう、じゃあ行ってくる。あと、一応これも預けておくよ。」
そう言って伊吹が手渡したのはこの家のカードキーだった。永遠はそれを受け取るものの、心境としては複雑だった。
「…あの、いいんですか?」
「え、何が?鍵がなかったら君も困るだろう?この家はオートロックになっているから一度出てしまったら鍵がないと入れないんだ。俺は指紋認証をしてあるから大丈夫だけど、さすがに君の分は登録していないし。」
「いや、そうではなくて、昨日会ったばかりの人間を家に一人にして、しかも鍵まで渡すなんて不用心過ぎませんか?何かあってもおかしくないですよ。」
「え、何かあるの?」
「俺はそんなつもりはないですけど、他の誰かは分からないじゃないですか。」
「平気だよ、盗られて困るものなんてないし。」
そんなはずはない。どう見たってそこらに置いてある骨董品はそこそこの高値が付いているはずだ。壁にある絵画も、点々と飾られている小物も、売ればそれなりの価値になる。その価値が伊吹にとっては盗られても何も思わない程度の価値であっても、永遠にはそれがその程度の価値とは思えない。中には何十年という生活が送れるほどの価値のものもあるはずだ。
伊吹との価値観の違いに永遠は戸惑いとも怒りともつかない感情を覚えた。
「もっと自分のものは大切にした方がいいですよ。無くした後にその大切さに気付いても、手遅れだって事もあるんですから。」
「…そうだね、それはその通りだ。でも、俺も簡単に他人に鍵を渡しているわけではないよ。現に家族以外で鍵を渡した事があるのは君だけだ。今まで付き合ってきた女性たちにも、鍵を渡した事はない。」
喜ぶべきなのだろうが、自分だけが特別と言われたところでその思いは複雑だ。何を持って永遠を信用してくれているのか。永遠がもし逆の立場だったとしたら、伊吹に自分の部屋の鍵を渡すなんてまだ出来そうにない。永遠こそ盗られて困るものなんて置いてはいないが、それでもまだ何も知らない他人を家に一人にする事も、鍵を渡す事も出来るわけがない。
蘭子には危機管理をしっかりしろと言われたが、伊吹は伊吹で永遠とは別の危機管理能力が欠如しているように思う。
「ほら、持っていて。もし俺が帰る前に君が出かけて帰って来ても入れないんだから。そんな事になったら俺が心配だし、それなら君が自由にしてくれている方が余程安心する。」
「……わかりました。でも、極力使わないでおきます。出かける時は皇 さんが家にいる時にするよう心がけます。」
永遠があまりにも不服な表情を見せているので、伊吹は小さく笑いながら「頑固だな」と言った。
「俺も蘭子にはよく危機管理をしっかりしろって言われますけど、皇さんも相当ですよ。」
「そうかな。ちゃんと人は選んでいるつもりだけし見る目もある方なんだが。それより前にも言ったけど、その皇さんって呼び方は堅苦しくて距離を感じるから、伊吹って呼んでくれないかな。」
「それは…無理じゃないですか。年上でしかも社長さんで、知り合ったばかりの人をいきなり呼び捨てには出来ません。」
「じゃあなんだったら呼んでくれるの?」
「皇さんじゃダメなんですか。」
「それはダメ。…そうだな、じゃあコウって呼んで。」
「コウ?」
「そう。仲が良いやつにはそう呼ばれる事があるんだ。皇ってコウとも読むしその方が呼びやすいだろ」
「…まぁ…それならまだ…」
「じゃあそうしよう。俺は君を永遠と呼んでもいい?」
「えぇ」
「良かった。じゃあ永遠、行ってくる。」
「…いってらっしゃい、…コウ、さん」
伊吹は満足気に微笑んで、涼しい動作で永遠の腕に軽く触れた。自然な動きを眺めているうちに、伊吹は玄関に向かいそのまま振り返らずに出て行った。
広い部屋にただ一人取り残された永遠は、手のひらに残されたカードキーを見下ろした。
なんて不用心な人だろう。
でも、今までに鍵を渡した事があるのは永遠だけだという。もしかしたら渡している人に毎回同じ事を言っているのかもしれないが、なんとなく永遠はそれを信じようと思った。
だからこそ、やっぱりあまり使いたくはない。理由は分からないが伊吹は永遠を信用してくれている。なら、その信用を裏切るような事はしちゃいけないなと、そのカードキーは大切なものを入れている箱に一緒に入れておく事にした。
それから荷物の片づけをして仕事が出来るくらいに整えた後、少し休憩をしてから今請け負っている仕事のデザインを始めた。描きかけのデザイン画を眺めて、物足りなさやしっくりと来ない理由がどこにあるかを考える。
クライアントは30代の夫婦だった。結婚10年目にして新居を建てたいという依頼だ。子供は2人。長女と長男が一人ずつ。確か長女は小学生になったばかりで、長男は幼稚園の年長だった。
子供部屋も欲しいが、家族団らんが出来る家にしたいと言っていた。永遠は建築士の資格を持っているが、正式に建築士として仕事はしていない。その為、デザインをしてもそれが建築物として実現可能なのか、それは前に働いていた会社に委託して確認してもらう事になっている。全て自分で出来れば仕事は早いのだが、自身の会社の人員だけではそう出来ないので、デザインを考える時間もあまりかけていられない。
それでも、満足できていないものをクライアントに見せる事も出来ない。
何度も書いては消し、書いては消しを繰り返して、家の間取りやその外観、内装もどういった壁紙や材質を使うかを頭の中でシュミレーションする。
自分だけが満足のいく家にしてもダメだ。住むのも、お金を出すのも永遠ではない。クライアントが満足できる家にしなくてはならない。
永遠が見たその家族の姿を思い浮かべ、その生活を想像する。
その度にデザイン画は何枚も生まれ、描き捨てられていった。
「そろそろ腹が減らないか?」
唐突に声を掛けられて驚きに体を揺らした。声のした方を見れば、扉を開けた伊吹が先ほど見た時よりもラフな服装でそこに立っていた。
「…え?なんですか?」
「腹、減らないかって。もう20時を過ぎたんだけど、分かってないよね。」
「え!もうそんなに経ってましたか…」
部屋を見渡して窓から外を見れば、そこはもう完全に陽が落ちて闇が広がっている。窓からは街灯の明かりが煌々と輝いて見えるだけだ。
「随分と集中してたみたいだから、帰ってきた時にも声は掛けたんだけど気付かなかっただろう?」
「すいません。全然気づきませんでした。」
「いいよ。集中したら寝ないって言ってたから、これくらいは想像がつく。でもうちに来たからには少しは生活環境を整えてもらわないとね。今やってるその仕事に区切りはつきそう?」
「今描いてる分を描き終えたらとりあえずは…」
「了解。ご飯作ってるから、区切りがついたらリビングに来て。」
「わかりました。」
昼過ぎから仕事を始めたはずなのに、気付けば5時間以上も没頭していたらしい。こんな事はよくある事の部類に入るが、さすがに他人の家でここまで集中した事はなかった。それも伊吹が環境を整え、永遠の邪魔にならないようにしてくれていたおかげだ。
「しかもご飯まで作ってくれるなんて…」
至れり尽くせりのこの状況は、嬉しい反面、申し訳ないという思いも募る。伊吹も仕事をして帰って来た身だと言うのに。
仕事に区切りをつけてリビングに向かうと、すでに垂涎するほどのいい香りが漂ってきた。
「凄いいい香り。パスタ?」
「そう。食べれる?和風ベーコンのパスタ。」
「大好物です。」
「あ、本当?良かった。」
伊吹は笑いながら永遠用のパスタを皿に盛りつけた。
永遠は待ち遠しいとばかりに伊吹の横に立ってそわそわとそれを待った。
「何か手伝います?」
「じゃあ飲み物用意してくれる?そこのワインセラーにワインが入ってるから。」
「了解です。」
食器棚からグラスを取り出してテーブルに並べ、ワインセラーにある数本のワインの中から一つを選んで取り出した。
「ワインはこれでいいですか?」
「うん、大丈夫。開けられる?」
「開けたことないです。どれ使えばいい?」
伊吹は引き出しを開けてコルクスクリューを取り出した。
「ここのラベルを先に剥がして、コルクにこれを回して刺すんだ。半分以上差し込んだらコルク毎引き抜いて。」
教えられた通りにコルクを引き抜くと、コルクの中にしみ込んだワインの香りがほんのりと鼻を掠めた。伊吹も永遠からコルクを受け取ってその香りを嗅ぐ。
「いい香りだ。パスタも出来たから食べよう。」
パスタをテーブルに並べて向かい合せで席に座る。永遠の空腹はすでに限界を迎えていた。
手を合わせて「いただきます」と言ってから、切望していたパスタに手を付けた。こんがりと焼けたベーコンと、和風のしょうゆ風味が口の中に広がって、咀嚼するたびに旨味が増していく。パスタの硬さも永遠の好みで申し分ない。作ってもらった手前文句など言うつもりもなかったが、これは言おうと思っていても何一つ文句の付けようがなかった。
「美味しい…」
「そう、良かった。俺好みに作ってあるから合わなかったら悪いね。」
「んーん、全部好み。最高に美味しいです。」
「そうか。一応もう一人分はあるからおかわりも出来るからね。」
「ん!ありがとうございます。」
もくもくと料理を口に運んでいく様を、伊吹は微笑みながら見つめていた。時には減っていくワインを注ぎ足しながら、永遠の一部始終を逃さないように見つめている。
「君は…食べている時も綺麗なんだな。」
ワインを仰ぎながら伊吹が呟いた。
「そんな事言われた事もないですけど。」
「そう?神部さんに言われた事もないの?」
「蘭子はそういう事は言わないです。」
「でもモデルに頼むくらいだから、君の容姿を認めてはいるんだろう?」
「蘭子とそういう話もしないので分からないですけど、蘭子はあまり俺の容姿を気にしてないと思います。学生の頃からの付き合いですけど、一度もそういう風には言われた事もないので。」
「そうなのか。それでも仲が良いんだろう?」
「まぁ…元々俺が友達少ないので。蘭子は他にもたくさんいますけどね。」
「君たちはそういう関係になった事はないの?」
伊吹の問いかけにパスタを咀嚼しながら永遠は首を傾げた。
「そういう関係って?」
「男女の関係だよ。」
永遠にとっては考えもしなかった話なので、伊吹の発言に目を見張った。
「ないです。あまりにもなさ過ぎてびっくりした。」
「そうみたいだね。どうして?神部さんも中々綺麗な人だと思うけど。」
「うーん、確かに綺麗だとは思いますけど、俺の好みではないし…蘭子もそうだと思いますよ。」
「二人ともモテるだろうに、勿体ないな。君たちが付き合ったら憧れの的とかになったんじゃないの?」
「そういうのになりたくて付き合うって違うじゃないですか。蘭子もそういう目立ち方をするのは好きじゃないと思うから、そんな考え方はなかったんじゃないかな。」
「あぁ、でも確かにそんな感じはするね。あんな立派な仕事をしてる人だから、考え方もしっかりしてそうだ。」
蘭子のそういう性格に何度も永遠は助けられてきた。いつも一本筋が通っていて、ブレない強さがあって、それを時に頑固だと感じる時があるけどその存在には安心を貰っていた。
なんでも相談できる姉のような、そんな存在になったのはいつ頃からだったかな。
と、そんな風に考えてる中で、別の考えが不意に浮上してきた。
「……あの、もしかして皇さんは蘭子の事が…?」
なんだか急に畏 まってしまった。
それこそ姉の彼氏になろうって人に会う気分とでも言うのか。
「魅力的な人だとは思うけどね。残念ながら恋愛対象としの感情は持っていなかったな。」
永遠の気持ちを察したのか、伊吹は少し笑っていた。
「随分探りを入れてくるから、てっきりそうなのかと。」
「ん?まぁ…どうだろうね。」
濁すような返事に永遠は小さく首を傾げたが、伊吹が「未来の事は分からないから。」と意味深な言い方をした。
でもそれは確かな事でこの先に何かきっかけがあれば、伊吹が蘭子に興味を抱くことも、またその逆もありえるかもしれない。蘭子の好みが伊吹とは少し違ったように思うが、そんなものは理想であって現実ではない。恋は理想通りでなければ成立しないというわけでもないのだ。むしろ、理想とはかけ離れていることの方が多いような話も聞く。
ただ、永遠はその時が来たら喜んで祝福しようと思った。
それは多分、この料理もワインも、凄く美味しいからだろうと、永遠は心中で頷いた。
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