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第10話
パスタをペロッと食べ終えた。空腹も理由の一つだが、美味しかったのが理由の大半を占めている。この先ここに住んでいる間は、こういう料理が食べられるのかと思うと、期待感がグンと増した。
「お皿は俺が洗います。」
「いいの?」
「さすがにそれくらいやらないと落ち着かないので。」
「じゃあお願いしようかな。それが終わったらまた仕事に戻るのかな?」
「いえ、今日はもうやりません。コウさんはお風呂は?」
「今から入るよ。」
「それじゃあその後に俺も入ります。」
「OK。じゃあ君が上がって来たらあれやろうかな。」
「了解です。準備出来たら声かけますね。」
「うん。じゃあこれよろしくね。」
皿洗いを引き継ぎ、スポンジを泡立てる。
この作業をそんなに苦だと感じた事はない。実家にいた頃から皿洗いは永遠の役割だった。
誰でもそうかもしれないがこういう手伝いをしていないと、自分がそこにいていいという安心感が得られない。役割を持たない人間は、そこに居てはいけないのだと、永遠はそう感じてしまう人間だった。
二人分の食器はそんなに多くはなく、10分もかからずに皿洗いを終える。
さすがに伊吹はまだ風呂から上がって来てはいないので、自室で仕事の資料を眺めている事にした。
クライアントからの要望をまとめたものを見ながら、自分が描いたいくつかのデザインを眺めていると、やはり要望とデザインのイメージが違うような気がするなぁと思えてくる。
今日はもう仕事はしないと決めても、うずうずとしてくる気持ちがあった。
これではない気がするのに、じゃあどこがどう違うのかと考えても、その答えが自分の中に見つけられない。違和感の理由がどこかにはあるはずなのに、ややこしい。
うんうんと唸っていると、扉が3度ノックされた。
「はい」
「お風呂上がったけど…仕事しないんじゃなかったの?」
難しい顔で資料を眺めていた永遠を見て、伊吹は苦笑を浮かべた。
この人には色んな意味でよく笑われる。
「あれ、早かったですね。」
「いいや、たっぷり1時間入ってましたよ。」
「え」
携帯で時間を確認すると、確かにこの部屋に戻ってきてから大体1時間が経っている。
なんだかもう、時空を超えた気分だった。
「君のその集中力は本当に素晴らしいね。」
「…それって皮肉ですか?」
「まさか。素直に褒めたんだよ。」
この人なら皮肉を言うよりは、駄目なら明確にそれを非難するだろうと思い、今回はその言葉を素直に受け取る事にした。
「…じゃあ入ってきますね。」
「ゆっくりでいいからね。」
「そうさせてもらいます。」
今日は仕事に集中する時間が多くて少し疲れた。癒しもかねてゆっくりと入らせてもらおう。
伊吹は先に自室へ戻って行ったので、永遠は着替えを持って風呂場へと向かった。
入ってから気づいたのだが、シャンプーもトリートメントも、もっと言えば体を洗う道具もバスタオルでさえも永遠は自宅から持ってきていなかった。
これは、借りていいのだろうか。いや、駄目と言われてもないものはしょうがない。体も拭かずに服を着るなんてありえないし、さすがに伊吹がそれでも駄目だと言う気はしない。旅行に行く時でもそれらを持って行く事はほとんどないので、完全な手抜かりだった。
とりあえず入浴だけはゆっくりとさせてもらったが、上がった後はそわそわする気持ちで伊吹の部屋を訪れた。
扉をノックしてすぐに返事があった。
「あの…上がったんですけど…」
「ゆっくりできた?」
「それは…はい」
ギクシャクする永遠を不思議に思った伊吹が、訝 しみながら「どうかした?」と聞いてきた。
「いや、あのですね。なんかすっかりと忘れてまして…」
「うん?」
「その、シャンプーとか、そういうものを…」
「あぁ、でも置いてあっただろう?」
「ありましたけど…俺のじゃないし…使っていいのかなぁと思いまして…」
あまりにも永遠が申し訳なさそうにしているものだから、伊吹は目を丸くした後に笑いを吹き出した。
「そんなに気にすることかな?君を見ていると俺がいじめているみたいに見えるよ。」
「勝手に使ったら怒られるかなと思ったんで…」
「怒らないよ。そこまで俺が狭量に見えるの?その方が心外だなぁ。」
「狭量とは思ってないですけど…まだコウさんの事は知らない事の方が多いから…」
「確かにね。俺もまだ君の事は知らない事ばかりだ。お互いこれから知っていくとしよう。ちなみに俺はそんな事じゃ怒らないし、この家にあるものは基本なんでも勝手に使ってくれていいから。」
そう言ってくれるだろうと思ってはいたが、本人の口から聞けるまでは中々落ち着かないもので、伊吹が想像通りに言ってくれて永遠はほっと胸を撫でおろした。
「こう言うのもなんだけど、よく言うだろう。好きな人から自分と同じシャンプーの香りがすると興奮するって。」
「聞きはしますけど…この状況にそれを当てはめるには色々と突っ込むところがありすぎますね。」
「悪い気はしないという意味さ。」
「それにしては例えがひどすぎる。」
「人にものを伝えるというのは難しいものだね。」
わざと言っているな。
面白がっているとしか思えない伊吹の顔を、永遠は睨みつけた。
もちろん本気ではないが。
「よくないな。そういう可愛い顔をするのは。」
伊吹が永遠の頬を軽く抓 った。
「いひゃいれふ」
「なんだって?」
「ふぉ…」
「うん?」
いじめかな。
笑顔を崩さない伊吹にやり返してやろうと、不意打ちのつもりで伊吹の顔に手を伸ばしたが、その手は簡単に捕えられた。引き抜こうとしても、力が強くてビクともしない。同じ男なのにこの差はなんなのかと嘆きたくなった。
「さて、冗談はこの辺にしてそろそろ始めようか。」
永遠から手を放した伊吹はマイペースに準備を始めた。
冗談を始めたのは伊吹の方なのに、とからかわれた気がした永遠は不貞腐れた。
「いじめられた…」
「いじめてないよ。可愛がったんだろう。」
「…歪んでますね」
「失礼だな。ほら、リビング行った行った。」
伊吹に追い出されるようにしてリビングに戻ると、昨日と同じようにソファーに寝かせられる。今日は風呂上りだったのでホットタオルはないらしい。
ちょっと残念だった。
「風呂上りだとさらに艶に磨きがかかるんだな。」
「そうですか?何もしてないしいつも通りだからよくわからない…」
「まぁ君はそうだろうけど。いやいや、素晴らしいね。これだと化粧水がいらないと思うのも無理はないだろうね。」
「男の人って皆そうじゃないですか?」
「いいや、意外といるんだよ。ちゃんとケアをしている人は。もちろん女性よりは少ないけれどね。うちで販売している男性用の化粧水もそれなりに売れているし、販売当初に考えていた推移をはるかに超えて売れたものだから、一時は生産が追い付かなかったくらいだ。あの時ばかりは事前調査を取らなかった事を大いに悔やんだね。在庫があればもっと正しい数値が分かっただろうに。品切れの期間が出来てしまっては正しい需要は分からない。」
優しく顔を撫でられながら伊吹の話に耳を傾ける。
早速眠くなってきてしまったが、今日は寝ても文句は言われないのかと思うと気が緩んでしまう。
「でも長続きしなさそう…」
「確かにね。持続力はなかなか望めないかもしれないが、初速が良いと分かればやりようもある。」
「…そういうのって、コウさんじゃなくて部下の人たちが調べたりしないんですか…?」
「もちろんしているだろうね。だけど自分の会社の事なのに俺が見ないのもおかしな話じゃないか。定期的に数値化したものを出して、部下たちと会議をするんだよ。良い所と悪い所を出し合って次の商品に活かす。どこでも同じだと思うけどね。」
「…そうですけど…ほら…コウさんはやっぱり…社長だから……」
「椅子に座ってふんぞり返っていればいいとでも?」
「いや、そうじゃ…なくて…」
どうしてこんなに眠気を誘ってくるのだろうか。
伊吹の手は永遠よりも厚みがあるせいなのか、触れられている感触がひどく心地がいい。
温かいというのもそうだし、大きいのもそうだし、とにかく伊吹の細胞そのものが永遠にぴったりと合っているのだと思う。
化粧水を塗り終わって、マッサージが始まる頃には本当に眠りが泥のように襲ってきて、頭では口を開けと信号を出しているのに、体は全然言う事を聞かなくなっていた。
「…眠そうだね。」
「……ん…」
伊吹の囁きに返事を返したくても、まともな言葉を返せない。
眠そうどころではない。最早半分寝ていると言っても過言ではない。
このままではいけないと思っていてもどうにもならないのだ。
伊吹が動く音だけは聞こえているが、もうそれが何を意味するものなのか分からない。
ここまでくると気持ちの良い入眠に体が浮いているような錯覚すら覚える。
いや…浮いているよう、ではなく、今は本当に浮いているのだ。
マッサージを終えた伊吹が永遠を寝室へと運んでいる。
あぁ、何から何まで迷惑をかけて…
しかも男の人に寝室まで運ばれてしまうなんて…
永遠は心の中では何度も起き上がって、「自分で寝室に行きます」と言おうとしているのに、体は一種の金縛りのように動かなかった。
今日は仕事に集中しすぎたせいかもしれない。
明日からはもう少しペース配分を考えないと…
だから、今日はもう、このまま甘えさせてもらおう…
永遠は寝室にたどり着く前に、ゆりかごに誘 われてぱったりと考える事もやめてしまった。
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