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第11話

明朝7時。パッと目を覚ますとベッドの中にいて、一瞬の混乱を(きた)した。 それでもすぐに昨夜の記憶は蘇ってきて、失態については多少の恥もあるが。お手を煩わせてしまったという申し訳ない気持ちの方が強かった。 しかしなんと言っても、伊吹のマッサージが上手すぎるのが問題だ。こうも気持ち良すぎてしまうと毎度寝てしまいそうだ。 それでも自分でやるよりはよっぽどマシなのだが、その度にベッドに運ばれるのはそれはそれで問題だろう。申し訳ない気持ちもあるしこれは一度伊吹に相談してみよう、と永遠はベッドから這い出て伊吹の部屋へ向かった。 伊吹の部屋は永遠の部屋と階が違う。 とはいっても、伊吹の仕事部屋らしき部屋しか知らず、寝室は別にあるだろうがそれがどこかは分からない。とりあえずは知っているリビングの奥の仕事部屋らしき扉をノックする。 が、返事は聞こえてこなかった。 となればやはり別の部屋にいるのかも知れないと、リビングをぐるりと見渡してみる。 結果としてはどこか分からない。 可能性がないわけではなく、ありすぎるのに問題がある。 「相変わらず…部屋数が多いな…」 ため息を吐いて、伊吹を探す事は諦めた。 黙っていてもいずれ会う事は出来る。 仕方がないのでとりあえず自室に戻ろうかと階段を上がっている途中で、階下から名前を呼ばれた。 「おはよう、永遠。」 スーツ姿でカフスを留めながら見上げてくる伊吹はいつ見ても隙がない。スーツはいつも違うものを着ているようで、今日はベージュに薄くストライプが入っているものだった。 初めて会った時は深い紺色のスーツを着ていたが、それもこれも似合っている。どんな色でも合うのだろうが、それ以前に自分の体に合ったものを選んでいるのだろう。 いや、オーダーメイドなのかもしれない。 「おはようございます。ちょうど探していたんです。」 「うん?何かあった?」 「…いや、でもやっぱりいいです。」 「え、気になるでしょう」 「これから仕事ですか?」 「そうだけど…」 「頑張ってください。」 「こらこら、違うでしょう。」 永遠を追いかけて階段を上がってきた伊吹に腕を掴まれた。段差分の身長差があるはずだが、下に居る伊吹はそれでも永遠よりわずかに身長が高い。 「なんか釈然としませんね。」 「え、何。」 「なんでもありません。」 「それは俺も釈然としませんよ。」 「……確かに」 二人は顔を見合わせて自然と笑いが込み上げてきた。 「それで?笑って誤魔化されないよ。何があったの?」 「いや、いいんです。というか、夜でいいです。今する話でもなかったので」 「本当に夜には教えてくれるんだよね?」 「えぇ、えぇ、それはもちろん。」 「じゃあ気になるけど今日は早めに帰ってくるから、その時にね。」 「はい。…あ、今日は俺も仕事に出るので」 「うん。鍵はあるでしょう?使って」 「…あまり使いたくないんですけど…」 「それは無理な話だと思うけどね。潔く諦めて。」 「んー……はい」 せっかく大事なものを入れてあるボックスに一緒にしておいたのに、やっぱり生活するには使うしかないのか。 意固地になっても仕方がないが、無くしたら…というプレッシャーがある。ホテルのルームキーを持って外へ出るようなものだ。落ち着かないが、こればっかりはどうしようもない。 「俺もそんなに遅くはならないと思います。」 「遅くなりそうなら連絡して。夜ご飯の事もあるから。」 「分かりました。…ちなみに今日のご飯は?」 「具体的には決まってないけど、今日は和食にしようかと思ってる。」 「じゃあ、卵焼き作ってください。」 「いいけど、好きなの?」 「凄く」 「そう、いいね。そういうのを知っていくのは凄くいい。」 伊吹が嬉しそうにしている事が、永遠には少し照れくさく、だけど、どうして伊吹がそこまで喜ぶのかは分からなかった。 人と人との繋がりを大切にする人なのか。社長という立場だと色々なところに交友関係があるのは良い事だ。それが仕事の役に立つことも大いにあろう。若い頃からそういう教育を受けて育っていたのなら、対人スキルは相当に高い。 永遠はその点は伊吹とは対極にいると言ってもいい。 初対面の人との会話は弾まないし、目を長く合わせる事も出来ない。社交辞令で相手の話に共感する事も、愛想笑いをする事も難しい。しなければならないと分かっていても、体は思う通りには動かないし、言葉も上手く口を滑らない。辛うじて「仕事」と割り切れる時だけ、仮面を被る事が出来ていた。 それなのにほぼ初対面の伊吹との生活を、期間限定とはいえ受諾出来たのはやはり伊吹の人当たりの良さが成せる技なのではと、身を以て体験した気がする。 「…俺にも何か、教えてください。」 「何かって?」 「コウさんの好きなもの。不公平かと思って。」 何故か不服を訴える永遠に、伊吹は目を丸くした。それから苦笑を浮かべて「それは不公平って言うのかな」と言った。それでも聞かれた事は嬉しかったようで「俺はにんにくが好きです」と答え、それには永遠が目をぱちくりと瞬いて、笑いながら「似合わない」と言った。 「もっとおしゃれな食べ物が好きなのかと思いましたよ」 「好き嫌いにおしゃれは関係ないだろう。ファッションじゃないんだから。」 「そうですか?俺みたいな一般人はそうですけど、社長ならそういうところも気にするものだと思って。ほら、例えば海外で食べたカエルが美味しかったとか。」 寄りに寄りまくった永遠の偏見に、伊吹は露骨に顔を顰めた。 「食べた事がないとは言わないけど、どうしてそんなものが出てくるかな」 「意外性?一般人とは違う感覚や経験をしてますよっていうアピールって言うんですか?そういうところでステータスを図るのが貴族かと思って」 「俺は貴族ではなし、別にそんなところで相手の気位を図ったりはしないよ。しかもカエルはおしゃれに入らないと思うし。君は社長という生き物をなんだと思ってるの?」 「人間だけど、俺とは違うと思ってます」 「人間とか、そういう次元の話なのか」 「社長ならば」 永遠には何の悪気もない。悪い事を言っているわけでもない。むしろ他とは違う確立された立場だというのは褒め言葉でもある。永遠も会社を興した事を考えれば社長という立場にもなるのだが、伊吹と永遠では事実、同じ立場ではないと思う。会社の規模が圧倒的に違いすぎる。 雲泥の差とはこの事かと永遠は感動こそすれ、妬みなど生まれようもない。 だが、伊吹にとってはそれが嬉しい事ではなかった。 ただの人間。違いなどありはしないのにいつもどこか違う世界へと追いやられてしまう。伊吹から近づいても勝手に離れて行ってしまう人はこれまでにも大勢いた。 近付いてくるのは色んな意味で下心のあるものばかりだ。 それでも… 「…今ほど社長を辞めたいと思った事はないね」 伊吹は額に手を当てて、それこそわざとらしく傷ついたように見せた。 実際のところ、多少傷ついたのは真実でもある。 「すいません。そんなつもりじゃなかったんですけど。」 「…許せないな。お詫び、してくれる?」 「お詫びですか…?俺に出来る事なら…でもお金はないですよ?」 「いらないよ。腐るほど持ってる。」 あまりにそれが現実味を帯びていれば、腐るほど持っている金の話も嫌味にはならない。 「何をしてもらうか。夜までに考えておくよ。」 「…はい」 これと言って良い予感はしないが、お詫びと言うのは多少、する側に不利益があるものだ。そこは許容範囲ならばある程度は飲み込まなければならないのは永遠も承知している。 そこまでしなきゃならない程、悪い事を言ったかな?と首を傾げる思いもあるが、人の地雷などどこにあるかは分からない。自分にとっては些細な事が相手の尊厳を大いに傷つける時がある。 少なくとも永遠にもその経験がある。 その過去の経験は永遠はだった。 永遠は他人よりも自分はズレているという自覚を多少なりとも持っている。 一般的な冗談で済む話が、永遠には現実的で笑えない冗談な事が今までの人生で多かった。 そのせいで傷つく事はあったが、自分の人生が世間とズレていると理解してからは寂しいとか悲しいという感情は昔より鈍くなったと思う。 「そろそろ行かないと。朝食は用意してあるけど俺は先に食べてしまったから、あとで時間があったら食べるといい」 「え、あ、ありがとうございます。」 「じゃあ、また夜に」 「はい。いってらっしゃい。」 「行ってきます」 伊吹は嬉しそうに、掴んでいた永遠の手を更にぎゅっと握る。 痛くはない。伊吹の感情が流れ込んでくる。そんな力加減だ。 伊吹は永遠に見送られるのが嬉しいらしい。 その気持ちは永遠も遠い昔には持っていた気がした。

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