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第15話

夕方になり、仕事を終えた永遠は佐江と共に事務所を出る。鍵は永遠も佐江も持っているので、最後に出た佐江が扉を施錠した。 二人で駅に向かって歩きながら、お互いが昼に見せ合ったデザインについて自然と話がのる。 どちらのものもお互いには良いものだと思っているが、当の本人だけが納得出来ていない状況だ。作る者としては一番いいものにしたいという向上心のせいだが、それはもう、一つの作品を作る者としての性というものだ。 色は赤よりもオレンジがいいとか、マッド加工にするなら材質はもっと柔らかいものの方がいいとか、細かいところでお互いに意見を交換し合う。 それを織り交ぜながら新しくデザインを描いていくと、新しい発想の中に自分なりのデザインが生まれてくる。それは今までの自分になかったものが生まれた瞬間でもあり、また一つスキルアップしたような気持ちになる。相乗効果とも言うのかもしれない。 「私のデザインのお風呂場に使う材質のサンプルって業者に頼んでもいいですか?」 「いいよ。どうせならちゃんとしたサンプル品もらって。今後も使えると思うし、それでお客さんにも直に見て触ってもらった方がいいし。」 「分かりました。」 「別に俺に許可取らなくてもいいよ。佐江さんの事は信頼してるから。」 「…やだー、ちょっとときめく。」 「白々しいね…」 「本当なんですけどね。」 「直樹くんが聞いたら泣くね。」 「言わないであげてください。勝ち目ないんで。」 「それが一番傷つくと思うけど。」 二人は顔を見合わせて笑ったが、やっぱり少し直樹には申し訳ないなと思う永遠だった。 駅に着くと、向かう方向が違う為、永遠と佐江はここで別れる事になる。 じゃあまた明日と言って別れた後、永遠は今来た道を引き返した。 そもそも駅には佐江を送りに来ただけで、伊吹の家までは一駅分しかないのだから、最初から 帰りは歩いて帰ろうと決めていた。自転車屋に寄ろうかと考えたが、今日は少し疲れたのでそれは今度にする事にした。 まだ陽も落ちかけてきた程で、外は街灯が無くても十分に明るい。 普段歩くことがない道を歩くのは、少し刺激的で楽しい。 少しずつ変わっていく街並みが、徐々に高級な住宅街に変貌していくのが面白い。 どうしてこの立地が高級住宅街となったのか、歴史を辿ればその経緯が分かるのだろうなと思うとそれを考えるのもまた気分が高まる。 そこにある歴史と、誰かが描いた世界だ。 永遠が描いたデザインの世界でも、誰かがそこで毎日を過ごしている。 幸せな時も、辛い時も、その生活を見守っている。 それは永遠が生み出した瞬間から、当たり前のようになる未来まで。 その生活を永遠が見ることはほとんどないが、現実にどこかの街のどこかの家で、それが行われているのだと思うと、見ていなくても心が温かくなる。 どこかでその家と繋がっているような、そんな気がする。 それは、まだ幼かった永遠が抱いた、夢のような現実だ。 よみがえるのは母の言葉。 ー永遠の作るものは、宝石みたいにキラキラしてるね。私の幸せの形。 母はそう言って永遠に微笑んだ。 幼くても、その言葉は永遠に魔法をかけた。 いつかそれを本物の幸せに変えるんだ。 そう、強く思った。 家にたどり着くと、すでに伊吹が帰宅していた。 玄関を通ってリビングに顔を出すと、伊吹がソファーで雑誌を見ながらくつろいでいた。 「ただいま帰りました。」 「おかえり。お仕事お疲れ様。」 「コウさんもお疲れ様です。」 「お風呂入ってくる?ご飯にする?」 「先にご飯にしてもいいですか?お腹減っちゃって。」 「いいよ。今準備するから着替えておいで。」 「はい。」 伊吹は雑誌を閉じてキッチンに向かい、永遠は二階に上がって着替えを済ませる。 部屋着に着替えてすぐにキッチンに向かうと、テーブルにはすでに料理がいくつも並んでいた。すべての料理から湯気がたちこめていて、伊吹の要領の良さに目を瞬かせた。 「すぐ降りてきたつもりだったんですけど。」 「うん?そうだね。」 「手伝おうかと思って来たんですよ。でも出来ちゃってるからびっくりしちゃった。」 「あぁ、そういうこと。さっき出来たばかりだったんだよ。永遠の帰ってくるタイミングが良かっただけ。」 優しく微笑んでそういうが、きっとそうではないのだろう。 そういう事を相手に気付かせないように、スマートにこなしてしまうのがこの男の凄いところなのだ。 「あ、卵焼き」 「リクエスト通りのね。味付けは俺好みになってるけど、大丈夫かな。」 「卵焼きならなんでも美味しいですから大丈夫です。」 「絶対的信頼だね。」 伊吹はそう言って笑った。 向かい合って席に座り、永遠が手を合わせて「いただきます」と言う。 それを見ていた伊吹が「昨日も思ったけど、丁寧だね。」と言った。 永遠が首を傾げたので、伊吹は小さく笑いながら永遠の真似をした。 「いただきます。…って随分丁寧にやるなって昨日も思ってたんだ。」 「…あぁ、これ。丁寧ですかね。ずっとやってるからあんまり変だとか思わなくて。」 「変だとは思ってないよ。でも珍しいじゃないか。特に男の人でそういうのをする人は滅多に見ない。信仰心の熱い人くらいかな。」 「信仰心はないですけど、母親に小さい頃から言われてたんです。昔は結構食べるのにも苦労したので、大事に食べなきゃだめよって言われてたんですよね。」 「そうなんだ。良いお母さんだね。」 「俺にとってはそうでしたけど、周りの人たちにはそうでもなかったみたいですよ。」 「そうなの?」 「夜の仕事をしてたから、結構俺が一人で家にいる事が多くて。それで周りの人は子供を一人で留守番させるなんてって言ってたみたいです。」 「そうなんだ。お父さんはいなかったの?」 「その時はいなかったですね。」 「単身赴任かなんか?」 「…まぁ、そんなものです。卵焼き、やっぱり美味しいです。味付けも俺の好きなやつだ。」 「そう?よかった。」 もぐもぐと頬を膨らませて頬張る姿に伊吹はまた優しく微笑む。 自分の料理をこうも美味しそうに食べてくれるのは嬉しい。 今まで彼女がいても、彼女に遠慮してあまり作る事がなかったので、自分以外の誰かの感想を聞いたのは久しぶりだった。 この家で一人暮らしをする前は実家で作っていたが、今はわざわざ実家に行ってまで作る事もなくなった。 「永遠は他に好きな食べ物はないの?」 「んー、ゴーヤチャンプルとか。」 「また珍しいところにいくね。苦いの平気なの?」 「いつもは得意じゃないですけど、ゴーヤチャンプルに関しては、あの苦味が好きです。」 「沖縄の人でも苦手な人がいるっていうのに。」 「そうらしいですね。コウさんはにんにく以外に好きなものはないんですか?」 「そうだなぁ。こんにゃくかな。」 「好きな料理とかじゃなくて、素材なんですね。」 「そういえばそうだね。料理かぁ。なんだろう。」 「自分でこんなに美味しい料理が作れるのに、好きな料理がないってちょっと面白いですね。」 永遠がふんわり笑っていると、伊吹はかすかに目を見張った。 永遠の微笑みの美しさに目を奪われる。 始めて見た時からそうだったのに、何度見てもその美しさには感嘆のため息がこぼれる。 美人は3日で飽きるとよく言うが、伊吹が永遠を初めて見てから3日が経つ今日も、当然だが飽きる事はない。どうやったら飽きる事が出来るのか、教えてほしいくらいだ。 伊吹にとって他愛もない会話が楽しいと感じたのは久しぶりだった。 食事を終えて今日も皿洗いを買って出た永遠に、伊吹はそのままお願いして風呂に入った。 その間に皿洗いを終えた永遠は、自室に戻って今日佐江と話したデザイン画を眺める。 佐江から貰った意見を参考に、自分で納得がいかなかった場所を修正すると、やはり前よりずっと良くなっていく。 ただただ佐江の言葉に、凄いなぁ、と感心する。 永遠も何が悪くて納得がいかないのか分かっていなかったのに、佐江にはそれがはっきりと分かっているようだ。永遠と佐江では見る観点が違うのだろう。 どちらが正しくて、どちらが間違っているわけではない。 それぞれの考え方、重点を置く場所が違っていいのだ。 その視点の違いがあるから、永遠はいつも佐江に助けられている。 何枚か簡単なデザインを描いていると、控えめに扉がノックされた。 「はい。」 「また仕事してるの?」 風呂から上がってきた伊吹が苦笑を浮かべている。 「思いついた時に描かないと忘れちゃうんですよ。次から次から湧いてくるから、早く描きとめておかないと…」 「熱心だなぁ。うちにもそれくらい熱心な人がいればいいんだけど。」 「いるでしょう。じゃなきゃ会社が大きくなりませんよ。」 「うちの会社がどれくらい大きいか知ってるの?」 「いえ、知りません。」 伊吹は声を上げて笑いながら「素直だなぁ」と言った。 先日、永遠が伊吹の名刺を見ながら電話をした時、伊吹がロゴについて「見た事があるだろう」と永遠に聞いた。永遠はそのロゴがなんの企業のものか分からなかった。「どこかで見た事はある」と言ったが、結局それがどこだったのかはいまだに分かっていない。蘭子が編集する雑誌に特集されるくらいだから、という理由だけで、女性に関わる事なのだろうと、それくらいの予測しかしなかった。現にそれは間違っていなかったが、伊吹の会社が美容系の商品を扱っていると教えられただけで、会社の規模までは調べたりはしなかった。 伊吹はそれに気付いていて、知ってるの?と聞いたのだ。 社交辞令をするのであれば、適当に答えることも出来ただろうが、永遠はそういう事は言わない。知らないものは知らないと答えてしまう。良くも悪くも永遠にはそういう素直さがある。 それを佐江にはよくよく指摘されているのだが。 今日も早々に、「嘘も方便」という事を注意されたばかりだった。 「あぁ…佐江さんに怒られる…」 「佐江さん?」 「俺の会社で一緒に働いてくれてるインテリアデザイナーです。」 「そうなんだ。そういえば自分で会社を立ち上げたって言ってたけど、媒体ってどのくらいの規模なの?」 「会社とは言ってますけど、ほとんどフリーみたいなものなんですよね。デザイナーは俺と佐江さんしかいないので。経理関係も全部自分でやってるので、事務所を形あるもので構えてるってだけですね。」 「そうなんだ。でもそれだけでも凄いよ。」 「何百人も抱えてる社長さんとは雲泥の差ですよ。」 「でもほら、それは元々親がそうだったからそうなれただけで。ゼロから作り上げてきたわけじゃないから。」 「いつかコウさんの会社ほどじゃなくても、もう少し拡大していければいいんですけど。」 「じゃあ今はそれを目標にしているわけだ。」 「まぁ…でも、これくらいの小ささでも仕事は途切れずもらえてるので、それ以上を望むのは贅沢な気もするんですけどね。」 「夢は大きく持って損はないよ。」 伊吹はそう言って永遠に微笑んだ。 大きな会社の社長をしている伊吹の言葉には、妙な説得力がある。 それを実現してきた人だからだろう。 「…と、お風呂はどうする?終わってからにする?」 「もう入ります。上がって来たらまた声かければいいですか?」 「うん。じゃあ俺も部屋に戻ってるから、ゆっくり浸かってきて。」 「はい。」 昨日と同じように、伊吹が先に部屋を後にして、永遠は着替えを持って風呂場へと向かった。昨日、勝手に借りてしまったシャンプーやタオルだが、今日も用意するのをすっかりと忘れていたので、また伊吹から借りる事になった。 体を洗って湯船に浸かり、のびのびと足をのばす。ジャグジーのボタンがあったので押してみたら、ボコボコと音を立ててお湯が踊り出した。良い具合に体に刺激があって気持ちがいい。こんな贅沢をしていたら、自分の家にちゃんと戻れるのかと心配になる。 気持ち良さに負けて寝てしまいそうだったので、惜しむ気持ちを押さえ込んで風呂から上がり、ささっと服を着て伊吹の部屋に向かった。 ノックをしてから扉を開くと、伊吹も仕事をしていたらしく、難しい顔で何かの資料を読んでいた。 「お風呂上がりましたけど…」 「あぁ、今行く。リビングで待ってて。」 「あ…終わってからでいいですよ。」 「いいんだ。今すぐどうこうする仕事じゃないから。」 伊吹には珍しい表情だった。 大体微笑んでいるところばかり見るので、あまり怒ったりする人ではないのかと思っていた。 あながち、仕事熱心な人がいてくれたらと言った言葉は嘘じゃなかったのだろうか。 だがそれを詮索するのは憚られる。 「じゃあ先に行ってるんで…」 そう言い残して永遠はリビングへ向かった。 ソファーに腰掛けて待っていたが、目の前のテーブルにある雑誌に目が止まった。 永遠が帰宅した時に伊吹が読んでいたものだ。 それはパッと見て女性向けのファッション誌だと分かる。仕事の一環で見ているのだろうが、これをどんな顔で買っているのかと考えたら、少し笑えてきた。 「何、どうしたの?」 笑っているところを伊吹に見られ、永遠は「これ」と言って雑誌を手に取った。 「自分で買ってるんですか?」 「うん。たまに部下に買ってきてもらう事もあるけど、大体は。」 「これ買う時に不思議がられませんか?」 「最初はね。でもいつも同じ店に行くから今はそうでもないよ。」 「女性社員に買ってきてもらえばいいじゃないですか。」 「そういう頼み事をするとトラブルになるんだよ。」 「トラブル?」 「やっぱりこう見えても社長なんでね。誰かに頼むとその人を優遇していると思われてしまうんだ。個人秘書がいればいいけど、ずっと誰かに着いて回られるのは好きではないし。だから部下に頼む時も出来るだけ、そういうトラブルにはならないように配慮したりね。」 「はぁ…大変なんですね。」 役職付きが特定の人を贔屓するのは確かにトラブルの原因になるのかも知れない。特に社長となると、役職付きの人たちですら、次の昇進候補は誰かと敏感になりそうだ。 だが、多分理由はそれだけではなく、伊吹のこの外見の事だから、女性社員が好意を寄せている事も少なくないのだろう。その中で誰かが伊吹に頼まれ事をしたとなれば、その女性社員の中で何が起きるかは想像に容易い。 雑誌一つ買うだけでそんな気遣いも必要なのかと思うと、異性にモテるのも面倒だなと思った。 「さぁ、早速やろうか。」 「あ、はい。」 伊吹がソファーに座り、その足にクッションを置いて、そこに永遠が頭をつける。3回目となるとこの状況にも少し慣れてきた。 「どう?つけ始めてから肌質が変わって来たとか感じる?」 「んー…いやぁ、あんまり分からないです。」 「そうか。まぁ始めたばかりだしね。君は元々綺麗だから、そんなにすぐには変化がないか。」 「大丈夫ですかね。これで宣伝とかしても。」 「うちの化粧水を使っている事には変わりがないんだから大丈夫。出来れば変化があってほしいけど、元の顔と比較した映像を流すつもりはないから見た目の変化がなくても問題はないよ。」 「なら良いんですけど…」 伊吹の指が永遠の肌に触れると、その感触を確かめるように優しく撫でた。 「触っても分からないな。やっぱり元が良すぎる。」 「俺のせいじゃないですよ、それは。」 「ご両親に感謝するべきだね。」 「…そうですね。」 人が一人生まれるには、男と女が一人ずつ必要で、当然ながらその(つがい)がその子供の親である。 それが当たり前なのだが、実際、戸籍上は親子でも、事実上の親子、つまりは血の繋がりがある事が絶対的ではない。 永遠の場合、今の家族とはこのケースである。 当たり前のように両親という言葉を口にする伊吹には、当たり前に両親がいて、共に血の繋がった事実上の家族なのだろう。 それを羨ましいとは思わないが、自分が一般的に言う普通というものから外れてる現実は、過去、永遠を時折苦しめた。

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