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第16話
「コウさんのご両親は、どんな人なんですか?」
ふと、興味が湧いた。
伊吹という人間をつくった男と女。
生物学的な精子と卵子が…という話ではなく、伊吹という人格をつくった人の事が、知りたいと思った。
「どんな…んー、父親は浮気性、母親は天然、かな。」
「浮気性なんですか?」
笑っていい事ではないが、他人事としては面白い。
「昔ね。親の事だから詳しい話を聞いた事はないけど、結構やんちゃだったらしい。」
「それをお母様は知ってたんですか?」
「そうみたいだね。別れる別れないの話で揉めてたから。何の経緯で知ったのかは分からないけど、父親は相当怒られたようだよ。」
「コウさんはどっちに似てるんですか?」
そう聞いてみたが、父親の方だろうなと永遠の中で結論は出ていた。
伊吹は「どっちだろう?」と言っているが、どう見たって天然なタイプではないし、過去に女遊びをしていたと聞けば、父親からの気質をちゃっかり受け継いだと見える。
外見の事は分からないので、もしかしたら顔は母親の方に似ているのかもしれない。
「君は?どんなご両親なの?」
伊吹にそう聞いたのだから、自分にも同じ質問が返ってくる事は読めただろうに、永遠は今更どうしてそんな事を興味本位で安易に聞いてしまったのかと後悔した。
だが、この程度の話なら、普通ではなくとも珍しいというケースでもないだろう。
そう思って永遠は自分の出生について伊吹に語った。
「俺、血の繋がった親って母親しか知らないんです。父親は生まれた時からいなくて、母親は生涯未婚でした。だから父親の顔も知らないし、本当にどこの誰なのか、日本人なのかも分からないんですよね。まぁ、俺がこんな形 だから、日本人なんだろうとは思いますけど。」
肌は色白で地毛は茶色。それだけでは日本人とは言えないが、顔の作りも特別鼻が高いわけでもないし、目の色も青やグレーと言った独特の色味はない。それに身長も日本人男性の平均に気持ち上乗せした程度だ。もちろんそれでも日本人と保証出来るわけではないが、まぁ、日本人だろうな、と漠然とだが直感的に思えるのだ。
「それらしい人に会った事もないの?」
「全然、全く。これは多分ですけど、父親は母親が俺を生んだ事を知らなかったんじゃないかなと思うんです。」
「どうして?」
「生活の全てが母親の働きで支えられてましたから。さっきも言いましたけど、母親は夜の仕事をしてまして、実際そういう仕事じゃないと子供一人まともに育てていけなかったからだと思うんです。昼間のパートをしていた時期もありましたけど、給料面では圧倒的に夜の方が良かったみたいなんで。だからもし父親が俺の存在を知っていたら、一度くらいは顔を合わせた事があったり、養育費みたいなものをいくらか払ってくれたんじゃないかな、と。まぁもしかしたら、知ってて払いたくなかっただけなのかもしれないですけど。」
生活はいつも苦しかった。食べるものは毎日同じようなもので、量も少なく、服も2着を毎日着回していたのだ。貧乏を絵に描いたような生活を送っていたが、それでも母親はいつも永遠に笑顔を見せてくれた。辛くなかったはずはない。だけどいつも彼女は明るかった。
そう、微 かに記憶している。
「血の繋がった人がそんな人とは思いたくはないね。」
「だから、知らなかったんじゃないかって、思うんですよね。」
「そっか。どうしてお母さんは言わなかったんだろう。」
「さぁ…聞いた事はなかったですし、当時はそんな事どうでも良かったから。」
「…そうか。」
空気が少し重くなる。
永遠にとってはこれ自体は重い話ではないのだが、聞いた側としてはデリケートな問題だと思うのだろう。同じ環境で育った人がいても、永遠は「自分もそうだった」と言えるから良い。そうではない人たちは、「その気持ちは分かる」などという安易な共感は出来ない問題だ。こういう生き方を強いられて来た人達にしか、この苦しみは分からない。
殊に伊吹の場合は裕福な家庭で育ってきている。それにはそれなりの苦悩があって当然だが、毎日を生きる厳しさを体験した事はないのだから、共感など出来るはずはないのだ。
余計な詮索をしてしまったと思っているだろう伊吹からは、この重くなった空気を覆すのは難しい。
永遠は何か明るくなれる話題はなかったかと思考を巡らせた。
「あ、そういえば今日、ちょっと変なお客さんが来たんですよ。」
「変?」
「えぇ、変というか…いや、変なんですけど、新築を建てたいって言って来たんですよね。」
「良かったじゃない。それのどこが変だったの?」
「いや、それがなんだか様子がおかしくて、暗い顔をしてるし、なんかちょっと目は虚ろだし、こんな状態で新築を建てないなんて思うのかなって思って。」
「変というか危ないの間違いじゃないか、それ。」
「そうなんですけど、ちょっと突っ込んで聞いてみたら、好きな人と一緒にいたいから家を建てたいって言うんですよ。」
「結婚するとかそういう事?」
「それも違うみたいで、相手の方にはまだ伝えてないらしいです。その人がお金持ちらしくて、その人に見合う人間になるために新築を建てるって言ってたんですよね。」
「どういう発想なのそれは。」と伊吹が顔を顰 めた。
その気持ちは永遠も大いに理解出来るので「ですよね。」と頷いて同意した。
「それでその話は受けたの?」
「まさか。ちゃんとお断りしましたよ。もし本当に建てたいのなら、相手の方と話し合ってから二人で来てくださいって。」
「なら良かった。」
「でも…ちょっと凄いなって思うんですよね。」
「どうして?」
「だって、普通ないじゃないですか、家を建てるって人生の中でも結構大きな決断だと思うんですよ。なのにそれを賭けてまで好きな人と一緒にいたいって思えるの、凄くないですか?俺には考えられなくて、凄いなって思っちゃうんですよね。」
人生の全てをそこに捧げる覚悟で、好きな人といる道を選ぶ。
罪な男の人がいるものだと、ある意味では女性を不憫に思う。
「君は凄いね。」
伊吹の関心は女性の突飛な考え方や想いの強さの方ではなく、それを語る永遠の方にあった。行き過ぎた好意は大抵弾かれるものであるが、永遠にはそういう概念がないようだった。もちろんその思考が一般的には危うい方にある事も承知の上だが、あまり人の想いを否定する事はしないのだろうと伊吹は感心した。
「コウさんはそういう恋愛とかした事はないんですか?」
「ないね。好きな人というのが居た試しがない。」
伊吹にとって永遠は例外の初恋だ。
当然、一目惚れも初めてだ。
「勿体ない。コウさんなら好きな人が出来てもすぐに付き合えるでしょうに。」
「どうかな。俺から告白とかした事がないから、いざとなったら馬鹿みたい狼狽えるんじゃないのかな。」
「そんな事ないでしょう。そういう事もさらっとやっちゃうんじゃないですか?」
「俺だって初めての事は緊張するよ。」
「イメージないなぁ。最近緊張した事ってなんですか?」
そう聞かれて考えてみたが、伊吹には思い当たるものがなかった。
強いて言うのなら今のこの状況の方が、余程心臓に悪いし、緊張する。
ただそれは、好きな人に触れられる喜びと混ざり合っているが。
「やっぱりないじゃないですか。」
「君はどうなの?」
「俺はいーっぱいありますよ。小心者なんで結構ドキドキするんで。それこそ蘭子の雑誌の表紙撮影なんて本当に緊張したし、皆に見られて気まずいし、どうしていいかわからないし。終わった時はもうこりごりだ!ってなりました。」
「あー、そうか。でもそんな風には見えなかったんだけどな。」
「え、見てたんですか?」
「少しだけね。スタッフの人が案内してくれたから覗いた程度だったけど、凄く、綺麗だった。」
あの永遠の姿は忘れようにも難しい。
網膜に、脳裏に、脊髄に…浸潤しているように、細部まで鮮明に思い出せる。
何度も何度も繰り返し思い出してきた。
幻想のような、現実の人間の姿だ。
「…やめてくださいよ。男に綺麗とか、嬉しくないんですよ。」
「でも言われ慣れてるんじゃない?」
「そんなわけないでしょう。芸能人でもないのにいちいち外見の事なんて言われませんよ。別に綺麗じゃないし。」
伊吹は驚きで目が点になる。
永遠が外見にあまり頓着しないのは、体のメンテナンスをしないと聞いた時から分かっていた事だが、周りの評価を知らないのは驚きだった。
「本当に言われた事がないの?」
「ないですよ。いや、ふざけてはありますよ?あと嫌がらせとか。本気で言われた事なんてあるわけないでしょう。」
これには伊吹が目を覆いたくなった。
永遠がふざけていると思っているだけで、多分、周りは本気だったはずだ。
本当に綺麗だと思って、素直にそう言っただけだろう。
だが、それがふざけていると思われ、ましてや嫌がらせと思われているなど、気持ちが伝わらないにも程がある。
「不憫だな…」
「まったくです。」
「そうじゃないよ。」
気持ちが伝わらなかった人の方だ。
「君、今まで恋人はいた事があるの?」
「…ないですけど。」
「まぁそうだろうね。」
なにせ、人の賛辞を嫌がらせと言うのだから。
「なんですか。いないとだめですか。」
「いいや、ありがたいなと思ってるよ。」
「何に感謝してるんですか、それは。」
「今まで君を取り巻いていた連中の勇気の無さに。」
「…んん?」
伊吹の言っている言葉の意味が分からず、永遠は小首を傾げた。
それを見下ろす形で見ていた伊吹は、小さなため息を漏らした。
「君にお願いがあるんだけど。」
「…はい、なんでしょう。」
「ちょっと目を瞑ってくれない?」
「あ、はい。」
伊吹の言葉に永遠は素直に応じてしまう。
きっと、化粧水を塗られるからだと思ったに違いない。
そう思うと分かって仕向けたところもあるから、伊吹としては少しだけ騙した事への罪悪感みたいなものはあった。
「ちょっとだけ、口を開けてくれる?」
「は……っん…!」
口を開けてと囁いた時は、すでに伊吹の顔は永遠のすぐ目の前だった。
薄く開けられた唇のその先に、舌を深く挿し入れた。
顔が逆を向いている事で、互いの舌が密に重なり合う。
驚いた永遠に舌を噛み切られないように、伊吹は唇の横から親指を突っ込んだ。
「うぅ!」
うめき声をあげる永遠の唇を貪るように、自身の口でそれを覆い隠す。
顎に鼻が当たろうとも、その接触がむしろ伊吹の体を高揚させた。
口腔内を蹂躙したところで唇を離すと、息も絶え絶えに涙を滲ませた永遠の目が伊吹を見上げていた。
「はぁ…な…なに…っ」
「キスだけど。」
「そっ…そうじゃ、なくて…なんで…!」
勢いよく起き上がった永遠はそのまま這って伊吹から遠ざかる。
「嫌がらせと思われたら嫌だなと思ったから。」
「十分嫌がらせでしょう!」
「そうじゃなくて、俺、君に言っただろう。君を美しいとか、綺麗だとか。何度も言った。その言葉を過去に君にそう言った者たちみたいに、冗談や嫌がらせだとは思われたくなかった。」
「…それならそうと、こんな事しないで口でしてくださいよ!」
「だからしたでしょう、口で。」
「そ、ういう意味じゃない!言葉で!確認しろって話!それに、キ、キスしたのは確認とは違う!」
「あぁ、押し付けだよね。色んな意味で。」
「なんでもそういう風にしか言えないんですか…!」
「そういうわけじゃないけど、君がそうやって取り乱すのはいいなと思って。」
とんだ悪趣味だ。
何を言ってもおかしな方に変換されそうで、言いたいことを言うのも躊躇する。
「全然慣れてないんだね。した事がないの?一度も。」
「あ、あるわけないでしょう!こういう事は恋人同士がするものなんだから!」
「あはは、まぁ、そうだね。でも俺たちは恋人同士じゃない。どうしようか。恋人になってみる?」
「ならないでしょう!」
永遠の伊吹に対する敵意が手に取るように分かる。
それだけのものを向けられる事はした。
失敗か。
手を出すには早すぎたのか。
いや、そうではない。
これが敵意でも好意でも、意識をしてくれればそれでいいのだ。
過去の者たちの賛辞は無碍にされて来た。
甘い言葉を囁くだけでは永遠の中には響かない。
なかった事にされるのだけは、我慢ならない。
かつて恋人が居た事はない。
皆が小心者で、永遠は鈍感。
そうと分かっていて、伊吹はのんびりと関係を築いて行こうなどとは思わない。
強引に攻めなければ、永遠は手に入らない。
「いいなぁ。今、ドキドキしてる?」
「っ…当たり前でしょう!」
「あぁ、緊張?」
「動揺!」
「…間違いないね。で、どうするの?」
「どうするって、だって、恋人は、好きな人同士がなるものでしょう…」
伊吹の場合、過去の付き合いでは別に好きではない人も多くいたが、そこはあえて口にせず、そのまま肯定する。
「そうだろうね。だけど、だとしたら問題は君にしかない。」
「え?」
「だって俺は、君が好きだもの。」
伊吹は静かに妖しい笑みを浮かべた。
その妖艶さに、永遠の顔がひくりと引きつった。
初めてのことは緊張するだって?
ほら、やっぱりさらっと、そういう事を、言うじゃないか。
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