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迷子たち

 湊の部屋で映画を観てから一週間が過ぎ、金曜日になった。  昼休み、湊が職員室でスマホを確認すると太樹からメールが届いていた。  太樹は特に何ということのない内容でもメールを送ってくる。  友人のライブを観に行ったとかテレビ番組が面白いとか学生のような内容だ。  湊は内容によって返事をしたりしなかったりする。  今日もその類かと見てみるとそうではなかった。 『今夜、湊さんち行っていい?』  今夜の予定は特ない。だから問題はないけれども結局、毎週会っていることになる。  太樹と一緒にいるのは楽しい。  だがこの関係は中途半端だ。しかも自分が返事をしない限りこのままだ。  そんな状態が良いはずがない。それゆえに、ずるずると会い続けていいのか湊は悩む。  とりあえずメールの内容はもう今夜のことだ。断る理由もないので『20時には家に居る』と返信した。  最初の連絡が休憩中のものだったのか、湊の昼休み中には返事は届かなかった。  その日の授業が終わった後、再び確認すると太樹から連絡が入っていた。 『じゃあその位に行く。飯は食っていくから湊さんも済ませてていいよ』 『分かった』  それだけ返して数学準備室への渡り廊下を歩く。  窓から夕日が見えている。その風景にどこかが触発されたのか、ふいに懐かしい気持ちがよみがえった。  ここを歩いている時によく後ろから走ってきた太樹に声を掛けられた。  そのまま二人並んで準備室まで話をした。内容はもう思い出せないけれど。太樹はいつも笑っていた。  ふいに「久住センセー!」と呼ばれた気がして湊は振り返る。  視線の先には誰も居ない。あれだけはっきり聞こえたのに空耳だったようだ。  湊は少しだけ立ち止まり茜色に染まる空を見上げた。  約束通り20時ちょうどに太樹は湊の家にやってきた。  湊は部屋に通してコーヒーを渡すと、壁に立てかけられたケースに目をやった。 「今日もベース持ってるんだな」 「ああ今日俺、早番だったんだ。それで都合つくメンバーとスタジオ入ってた」 「ふうん……」  高校の時もずっと弾いてたんだよな。と湊は思う。それだけ続けているということはよっぽど好きなんだろうと。そして少し興味が湧いた。 「なあ、ちょっと弾いて見せて」 「別にいいけど、アンプ繋がないと全然音でてる感じしねえよ?」 「そういうもんなの?俺、全然分かんないから、ごめん」 「謝んなくてもいいよ、じゃ、ちょっと待って」  太樹は手馴れた様子で簡単にチューニングすると、指で二、三フレーズを弾いて見せた。  目の前で見て、たったそれだけで湊は目を丸くする。 「……すごい。左手、そんな有り得ないような角度で動くんだ。右手もバラバラに弾いてるのに、何でリズム狂わないの」 「死ぬほど練習したから」  笑って太樹が答える。 「好きな事に一生懸命で形になってるのは良いな。えらいと思う。水上、数学はダメだったけど全然良いと思うよ」 「だから、褒めてるのけなしてんの」 「どう聞いても褒めてるだろう」  湊は心外そうだ。太樹がそれを見てにんまりと目を細めた。 「ちょっと弾いてみ」 「いや、無理だよ。壊すって」 「無理なのは分かってるよ。心配しなくてもそんな簡単に壊れない。俺が先生役やってみたいの」  太樹が強引に湊にベースを持たせて前に座る。湊はどこを触っていいかも分からず困った。 「ほら、左手は中指でここ押さえて、右手の人差し指で弦はじいて」 「え?何どこ?」  あたふたする湊とは対照的に太樹は嬉々としている。  湊が弦を弾くとベヨンとした情けない音が出た。 「湊さん指の力ないなー」 「し、仕方ないだろう」 「次、ここと、ここ」 「無理だって。指がつる」  太樹は次々指示を出して湊を困らせて楽しんでいる。  そして「仕方ねえな」と言い湊の背後にまわる。そのまま湊の手を取って押さえる場所を差し示す。 「普通はコードで表現するからそう言わないけど、ここが一応ドレミのドの位置」 「うん」  教えられた場所を湊がぎこちなく弾いてみる。 「あ、ドだ」 「分かる?湊さん耳いいじゃん。これがレ」 「うん」  湊は素直に教えられるままに真似をする。そのまま一通りドからドまでを弾き終える。 「何でピアノみたいに順番に並んでないんだよ、覚えられる気がしない」  ベースの弦をまじまじと見る。 「この弦ってさ、金属なんだ。知らなかった。あとなんだ、指の先が痛い」 「あ、そっか。音が響いたらうるさいと思ってピック使わなかったんだけど、弦が固いから慣れない指じゃ擦れて痛くなるんだった。調子乗った、ごめん」  太樹は湊の手からベースを持ち上げて横によける。 「いいよ、面白かった。でも俺には弾けそうにない。お前やっぱすごいよ」  正直にそう思って太樹に伝える。 「もちろん俺はすごいけど?でも実際ライブ見たらもっとそう思うから。だから来てよ」 「そうだなー」  太樹が自分の事を好きでなければ、すぐにでも行くと答えられる。  けれどもこの関係を続けて良いのか、湊はまだ悩んでいる。  結局、曖昧な返事しか返せない。そのせいで、そのまま沈黙に繋がる。  太樹が動いて湊を後ろから抱きしめた。乱暴にではなく、壊れやすい物をそっと包むような仕草で。  そういえばまたこの体勢だ。湊は今更に気が付いた。前に映画を観た時もこんな風に後ろから抱きしめられていた。 「湊さん。隙、見せすぎ」  太樹の低い声が湊の耳元をくすぐった。 「……ごめん」 「謝るってことは答え、まだ出ないんだ」  太樹の声色からは感情が読み取れなかった。 「…………」 「でも逃げないんだな」 「……どうしたらいいか、分からないんだ」 「んな、かわいいコト言ってると食っちゃうよ?」  太樹の声に含み笑いが混じった。 「俺は、この状況を拒否れない湊さんの優しさに付け込んでんだから」  太樹の言葉は馬鹿が付くほど正直で真っ直ぐに湊に響いてくる。 「──あのさ、いきなり俺と同じ比重で好きになれなんて言わねえから安心しろよ。湊さんはそのままでいいからさ」  湊も太樹が自分を好きなのはもう充分過ぎるほど知っている。  太樹と居るとその愛情がダイレクトに流れ込んでくるようで、心地よい。  優しさに付け込んでいるのはむしろ自分の方だ。受け入れきらず、拒みきらずに居心地の良さだけ手に入れている。  太樹の唇が湊の首筋に触れた。そしてそのまま呟く。 「湊さんの身体って、腕にすっぽり収まってすげえ抱き心地良い」 「それは誰かと比較して言ってるのか?」  深く考える前に湊の口からポロリとこぼれ落ちた言葉だった。 「……は?」  意外な言葉を聞いたように太樹の体が固まる。 「もしかしてそれ、妬いてんの?」  今度は湊の体が硬直する。自分ではそんなつもりはまるでなかった。けれど言われてみればそう聞こえなくもない。  太樹が苦しそうに息をつき、抑揚を抑えたような声を出した。 「湊さん……俺これでも目一杯、精神力つかって我慢してんだよ。あんま……誘惑しないでくれる?」 「誘惑……?なに言ってるんだ……」  湊は自分の身体が火照るのを感じた。きっと顔も赤くなっている。そして唐突に太樹に抱き締められている事が恥ずかしくなる。  気付いてしまうと、じっとしては居られなくなり太樹の腕から逃れようともがく。 「ちょっとあんた、さっきよりよけい可愛くなるって、どういうつもり?」  太樹は湊を離さず、それどころかするりと体勢を入れ替え、湊が唖然としているうちに押し倒した。 「俺だって暴走して湊さんに顔合わせられなくなるような事したくないからさ、我慢はするけど……今はちょっと無理かも」  太樹の表情は逆光になってよく分からない。冷静さは保っているようだが硬い中に熱っぽさのある声色だった。 「水上……」 「湊さん、俺に触られるの嫌?」  太樹の大きな手のひらが湊の頬に触れる。 「別に、嫌じゃない。それより、この体勢は……」 「嫌じゃないなんて、そんな事あっさり言っていいの。それこそ、こんな体勢させられてんのにさ」  言いながら太樹が片肘を床に着いたので顔の距離が近づいた。身体もかなり密着することになる。 「俺が考えてる事って、この程度の比較にもなんないんだよ?あんたの事どういう目で見てるか具体的に説明しようか?」  自分の事を好きだと言っているくらいだから、そうなんだろう。だが説明されたところで、困るだけだ。 「しなくていい……」  太樹の指先が首筋を探るように辿って鎖骨をなぞる。その感触にゾクリとし肌が粟立つ。 「ねえ、忘れちゃった?前にキスした時の事。てか酔ってたから、そもそも覚えてない?湊さん、これ以上ダメって言ったじゃん。俺がしたいのはその先だって──わかってる?」  そして、その言葉に感覚がよみがえる。忘れてなどいなかった。  太樹が首筋に口を寄せる。 「好きだよ、湊さん」  囁いてその場所に顔を埋める。押し当てられた唇が熱い。  湊は急に恐怖が湧いて来た。太樹にではない。このまま受け入れる事に抵抗がない自分にだ。 「水、上……分かってる、と思うけど……」  湊はまだ答えを出していない。流される前にかろうじて踏み留まろうとする。 「そうだな、頭では分かってるよ。頭ではね。でも、湊さんも分かってるだろ?」  太樹はただ待ってる訳ではなく湊を口説いている事を。太樹は湊が欲しいと言っている。  湊にだってもちろん分かる。だからこそ、留まる理由を必死に考える。 「困ってるね、こないだは酔ってたもんな。今の湊さんには理由が必要なんだよな」  そんな湊の考えを読むように太樹は湊の頭の上で両腕をまとめて押さえ込んだ。 「──はい。これであんたは不可抗力」  低い声で言うと湊が口を挟む間もなく口づけた。  そうされてしまうと、抵抗するのがわざとらしいポーズのように感じられて事実、湊は不可抗力に陥ってしまった。  大人しくキスを受け入れるしかない。  太樹は何度も何度も、軽いキスを繰り返した。それがあまりにも甘やかで頭の芯がぼうっとしてくる。 「可愛い、湊さん。……あんたを抱きたい。俺のことしか見えなくなるまでドロドロにしたい」  欲望を口にする太樹のその声だけで湊は犯されているような気分になる。 「水……っ」  言葉を発したタイミングで唇を割られて、気がつくと太樹の舌に絡めとられていた。 「んん、……っ」  思わず湊の口から声が漏れる。正気で聞く自分の声のあまりの恥ずかしさに湊は身を(よじ)り拘束を解こうとした。 「なに?湊さん」  太樹が唇を離して尋ねる。 「なに、じゃなくて──もういいだろ」  自分の内に感じる、じわじわと迫りくる欲求を跳ね除けるために、ぶっきら棒に湊は返す。 「いい訳ないじゃん」  太樹の声は不服そうだ。 「まあ、自制もそろそろ効かなくなりそうだから、もう止めとく」  そう言い太樹は意外にもあっさりと解放する。湊は起き上がって体を離した。 「俺が聞き分けのいい子で良かったね。湊さん」 「どこがだよ」 「──あんた、理性ぶっ飛んだ男の怖さ知らないから、そんなこと言えんだよ」  どういう意味だというのか。突っ込んで指摘したいが太樹の瞳が思いがけず昏い光をたたえていて、そんな事を言い出せる雰囲気ではなかった。  湊が黙っていると太樹が立ち上がった。 「俺…………今日は帰るわ」  唐突とも取れる様子で太樹はそう言った。その変化に湊は少し戸惑う。  怒っているという感じでもないが、どこか冷淡な態度に思えた。 「え?……うん。ああ、じゃあ車で送ろうか?」 「いいよ、一人で帰る」 「……わかった」  おやすみと太樹は言い、あっさりと目の前でドアは閉まる。  どうしたというのだろう。あんな態度の太樹は今までで初めて見た気がする。  太樹はいつも自分をストレートに表現し続けてきた。良い感情も悪い感情もこちらが困惑しようが迷惑しようがお構いなしにだ。  それが今さっきの態度は、どこか引っ掛かった。壁をつくられたような、とでも表現するのか。  なんとなく湊は予感がしていた──あまり良くない方向に。  そしてその日から太樹からの連絡はピタリと止んだ。  それまで来ていたメールも、誘いも、再会する前と同じように沈黙した。

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