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全身全霊

 やがて演奏が終わりフロアが明るくなると、ステージ上のメンバーがスタッフと共に片付けを始めた。それを目にしてようやく、その場に居ながら迷子のようになっていた湊も意識がはっきり戻ってくる。  目の前のステージからひょいと飛び降り、湊の方に向かってくる人影があった。太樹だ。  近くで数人の若い女の子達の、小さな嬌声が上がったことに湊は気付いていた。  太樹はそれを意に介した風ではない。 「どう、惚れた?ってか惚れ、直した?」  真っ直ぐに湊の前に立ち、そう言って太樹は腰に手を当てて顔を覗き込む。 「──格好悪くは、なかった」  湊は太樹の顔が見れずに視線をそらす。 「素直じゃねえなあ」  ステージ上から太樹を呼ぶメンバーの声がする。早く片付けろということらしい。 「この後、ここで打ち上げあるから、もうちょい待ってて」  そう言い残して太樹はステージに駆け戻る。  ステージが片付いていくのと並行して、客席に長机が運び込まれた。  その上にデリバリーのピザや缶ビールなどが並べられていく。  内輪イベントというだけあって、それぞれに誰かしらと顔見知りのようで、大体が雑談をしながらその間を待っているという感じだった。  湊は少し居心地の悪さを感じたが、何も言わずに帰るわけにもいかず隅の方で座っていた。 「あれ久住先生?久住先生でしょ?」  思いがけず声を掛けられ顔を向けると、太樹のバンドのギタリストだった。太樹と同じ位の年頃でどこかで見た顔のような気がした。 「そうだけど、君は……桜川高の卒業生……?」  声をかけた男は、やっぱりと言って笑顔になる。 「俺、水上太樹と同級生の軽音部で一緒だった速水典人(はやみのりと)です。三年間、数学はずっと久住先生だったよ」 「ああ。軽音の速水くん、覚えてるよ」  太樹の周りにいた生徒は自然と印象が強く残っている。 「先生がここにいるって事は、太樹に呼ばれた?」 「うん──まあそう」 「あいつ、まだ先生追っかけてんだ!?先生も大変だねー」  速水は知らなかったらしく激しく呆れた顔をした。湊は苦笑する。 「ノリ、太樹は?」  その時、別の方向から速水に向かって声がかかった。 「ああ、さっき対バンのボーカルの子と話してた。なんか、告られてるっぽい雰囲気だった」 「あー。太樹、あの子にタゲられてたもんな」 「可哀想になぁ。太樹狙ったって無駄なのに。ねーセンセ」  事情が分かっている速水が、思わずといった様子でそう呟く。 「俺にふるなよ」 「何?」  速水に声を掛けた彼はそれを不思議そうに聞き返す。 「こっちの話。あ、この人、俺の高校の時の久住先生、先生これうちのボーカルの高木晃(たかぎあきら)。あと、今いないけどドラムも同級生だよ。大橋っての」  ドラムも太樹の代のメンバーだったことに湊は驚く。  大橋の名前も聞き覚えがある。顔を見ればはっきり思い出すだろうと思った。それだけ条件が揃えば、さっき湊が感じた既視感も当然と言えなくもない。  高木はバンドの顔であるボーカルだけあって、人目を惹き付ける風貌をしていた。  背が高く太樹よりも長身かもしれない。しかし太樹よりも華奢で、どことなく気だるげな表情が似合う。  速水にしても太樹と並んで人気があったくらいだ。昔から整った顔立ちをしている。  演奏力も水準以上にあると思われるこのバンドが、若い女の子に人気があることは容易に想像できた。 「へえ、先生と仲良いなんて意外」  高木が驚いた顔をして湊と速水の顔を見比べる。 「いや、仲良いのは俺じゃなくて太……」 「お前ら、俺の湊さん囲んでなに和んでんの?信じらんねえ」  速水が喋るのを遮って、太樹が皆の視線から湊を隠すように前に立ちはだかった。 「ちょっと、水上」  太樹の暴走を止めようと湊が立ち上がった時、客席で準備をしていたスタッフから声が上がった。 「皆さん今日はお疲れ様でしたー。ささやかですが、これから打ち上げを行いたいと思いまーす」  その呼びかけで、各々が中央に集まる。ビールや飲み物が行き渡ったところで乾杯の音頭と拍手が起こる。 「さっき、あいつらとなに話してたの」  太樹が睨め付けるような視線で湊の隣に立つ。 「速水くんが俺のこと覚えてて、声掛けてくれたんだ。桜川の卒業生だって言うから」 「ああそっか、ノリは知ってるもんな、湊さんのこと。俺がいない時にわざわざ湊さんに近づく神経が分かんねえけど」 「水上がいないから来たわけじゃないだろ」  他人も湊を狙っていると言わんばかりの言い草だ。  そんなのは太樹だけだ。太樹だけがおかしなくらい湊に執着しているのだ。  少し離れたところで速水と高木がファンらしい女の子達に囲まれているのが目に入る。女の子達は瞳をキラキラさせて嬉しそうに笑っている。  そうだ、太樹は本来ああいった子達と一緒にいるのが当然のはずなのに。 「晃さん、今日も素敵でしたー」 「ノリくんもチョー格好良かった!」 「え?大橋くん帰っちゃった?マイペースすぎるー」 「太樹くんは?こっち来るかな?」  そんな話し声が聞こえる。  それとは別に対角線上に太樹達を、というよりも湊を、睨みつけるような強い視線で女の子が腕を組みこちらを見ていた。  太樹達の前に演奏していたバンドのボーカルの子のようだ。さっき、速水と高木が話していた子だろうか。  身に覚えのない険しい視線の原因は、おそらく太樹なんだろう。 「あのさ。俺はもう帰るからみんなの所、行った方がいいんじゃない?大事なファンだろ。それとあっちの子の方も、お前に用事ありそうな顔してるし」  湊が気にして小声で言うと明らかに苛立った表情で太樹が()めつけた。 「はっ?なんで湊さんが遠慮してんの。あんたより大事な人間が俺にいるって、本気で思って言ってる!?そんなことも理解してくれてないの?」  殺気立ったその声に、近くの人たちが何事かとこちらを向く。太樹はあからさまに見せつけるように湊の背に腕を回し身体を抱き寄せる。  そして腕の力で押すように壁の方へ歩き出す。湊は嫌な予感がしたが、太樹の力が痛いくらいに強すぎて振りほどけない。  ファンの子達は当然その動向を目で追っているだろう。もちろんバンドのメンバーも。喧嘩でも始まったらと心配だろうから。  湊からしてみれば喧嘩ならよっぽどましだった。  とうとう壁際まで来ると湊を離し、代わりに壁に手を着き行き場を無くす。少しだけざわめきが起こったように聞こえた。 「水上……みんな見てる……っ」 「だからやってんだけど?」  挑発するような笑みを浮かべて、太樹が片手で腰を引き寄せた。そして、ここへ着いた時のように強引に唇を重ねられる。  湊は抵抗するが簡単に捻じ伏せられてしまう。ギャラリーの前で十分すぎるほど湊の唇を貪った後、顔を離して太樹は言った。 「これで分かった?俺が、あんたのことしか考えてないって」  湊の手のひらが太樹の頬を打った。響く乾いた音と熱い手のひらに、湊の方が驚いた顔をしていた。  太樹は何事も無かったように隅に置かれていたベースを拾うと、湊の手を引いてフロアを横切った。  そして速水たちの横を通り過ぎざまに 「俺、帰るわ」  と言い捨てる。  引きずられながら強引に連れて行かれる湊を、同情するような目で速水が見送っていた。 「水上!どこ行くつもりだよ」  外に出ても歩みを止める気配のない太樹に湊が咎めるような声を上げる。 「湊さんち」 「なんで!」 「なんでって?」  本当になぜ行ってはいけないのか分からない、という表情で太樹が湊を見る。 「ちょっと……止まって!水上」  湊は太樹の腕から抜け出し足を止める。 「……今日のお前、強引すぎるよ。俺、ついて行けない」  湊は太樹から一歩離れた。自分の右手で左腕を抱くようにきつく掴む。  言ってしまったら、この関係が終わることは分かっている。だがもう避けて通れない。  それを口に出さずにこの不安を抱えたまま、一緒に居る事を選択するなど湊には到底出来ない話だった。  しっかりと太樹を見上げて目を合わせ、一言一言ゆっくりと言葉にする。  高一の夏の終業式に太樹へ伝えたように。 「水上、返事だけどさ。俺はやっぱり、お前とは付き合えない。お前にはもっと、お前に似合う子がいると思うんだ。──十歳も年上で男の俺じゃなくて」  太樹の目が大きく開かれる。 「……なに、言ってんの。そんなの今更だろ」 「でも俺なりに、改めて考えて出した結論なんだよ」 「湊さん………俺がどんなにあんたのこと好きか分かった上で、その上で、それ言ってんの!?」  まだ信じられないという表情で、太樹が湊の本心を探ろうとするように凝視する。 「分かってるよ」 「それじゃ……あんた本当は──俺を好きだって自覚あって……そんなこと言ってんの……?」  太樹が一歩踏み出して、縋るように湊の右腕を強く掴む。  その手が、細かく震えていた──。 「──そう、だよ」 「言ってること、おかしいじゃん!メチャクチャだよ。俺もあんたもお互いに好きなのに、何がダメなんだよ!!」 「俺と居たってお前が幸せになれないからだよ。お前は俺に(とら)われすぎなんだよ。周りが見えてないだけだ。もっと現実をよく見ろよ!」  もうこれで最後だとでも言うように、そして自分の未練を断ち切るように、湊は太樹の腕を振り払った。 「本気で、そんなバカなこと言ってんの。湊さん」  腹の底から湧き出る怒りを押し殺したような低い声だった。  目をそらしたくなるのを堪えて、湊は頷いた。  それを確認し、太樹の方から目をそらした。それは初めての事だったかもしれない。──そして長く息を吐き出す。  それから、なんの感情も込められない無機質な硬い声で太樹が言った。 「ああ──そうかもな。湊さんの言う通り、俺はずっと我慢しすぎて意地になってんのかもな?手に入ったら案外すぐに飽きて、捨てるかも。そうなるくらいなら最初から付き合いたくなくても当たり前。それがあんたの本心だって言うんなら……俺に止める権利はねえな──」  湊は思わず耳を塞ぎたくなる。だがそれを言わせたのは湊だ。  だから、うつむきながら無言で背を向けた。  そしてやっぱり嫌だ、一緒に居たいに決まってる、そう言ってすがりついてしまう前に足を踏み出す。 「湊っ!」  背後で太樹の怒鳴り声がした。湊は耳を貸さない。  その場から一歩でも遠ざかりたくて早足になる。  どこに向かっているのか分からなかった。ここではない、どこかに行けるならそれで良かった。  どうせ溜まった涙で、道など滲んで見えていない。溜まった涙がこぼれて落ちても、後から後から溢れてくる。  まだ太樹が見ているかもしれないから、泣いているのを悟られないためにそれを拭うことすら出来ない。  ただひたすら目の前の道を精一杯毅然(きぜん)として見えるように突き進む。  ──不意に後ろから目の前に腕が伸びてくる。  そう思った時には抱きすくめられていた。 「信号、赤だよ。バカ」  言われて見てみると湊の涙で歪んだ視界には、ゾンビで溢れ返った交差点が映った。  太樹と観たアレだ。周囲の四方八方を生気のないうつろな瞳でのっそりと蠢いている。  まだ湊に気づいていない彼等から身を護るように、湊を背後から抱き締め太樹は言った。 「ああ言えば満足だったんだろ。なのになんで、そんなに泣いてんだよ」 「泣いてなんかない」  顔を見られたら一目で分かる嘘でも湊はそう言うしかなかった。 「嘘つけ」  太樹は腕を回したまま湊の肩口に額をつけている。無理に湊の顔を見ようとはしなかった。 「湊さんが大好きだ。あんたじゃないと嫌だ。六年間ずっとそうだよ。本当に……そうなんだよ。言っただろ、誰と付き合ってもダメだったって」 「水、上……」 「俺といてよ。俺の手の届くとこに、いつもいてよ。湊さんが全部欲しいよ。湊さんが考える時間はまだ足りないんだろうし、困らせてるのは分かってる。全く会わなかった三年間はまだ耐えられたよ。けどさ、もう駄目なんだ。一度会っちゃったらもう全然、我慢なんて出来ないんだよ。だって、会う度に湊さんが好きになってくんだよ。もう十分だってくらい、隙間なんてどこにもない程、俺はあんたで一杯なのに、好きだって気持ちがどんどん膨らんでくんだよ。自分じゃ止めらんないんだ」  それは聞いているのも辛くなるような、いたたまれない声だった。擦り切れたような絞り出すような初めて聞く声だ。 「──だから連絡するの止めたんだ。最後に会った時、あと少しで湊さんのこと無理やり犯すとこだった。もうこれ以上自分を抑え切れないと思った。あんたに会うと触れたくて仕方なくて、何するか分かんなかった。──自分が怖くなって会うの止めたけど、会えない間はすごく不安で不安で、辛くて気が狂うかと思った」  それも初めて耳にする太樹の弱音だった。  だから湊からメールをした時、仕事中だったはずなのにすぐに電話を掛けてきたり、怒っていないかと訊いたのか。  どれだけ傍若無人に見えても傲慢そうに見えても太樹が何も思い悩まないはずがなかった。  湊は太樹の表面上だけしか見えていなかった。太樹が見せようとする部分しか見てこなかった。  自分が感じた痛みや葛藤を同じだけ太樹も感じている……どうしてそう考えなかったんだろう。そんな当たり前のことにどうして気が付いてやれなかったんだろう。 「なんでお前……俺なんか、そんなに……」 「分っかんねえよ!でも、湊さんだからだよ。あんたの代わりなんか居ないんだ」  太樹の理屈は子供がどうしても欲しいおもちゃをねだっているのと同じだ。心から、純粋でひたむきに、ただそれだけを欲しいと。  その想いが純粋すぎるが故に強すぎる原動力となって。  太樹はそれを手に入れるため、湊の出した、自分を諦めさせる為の理不尽とも言える条件を理解しようとし、大人になろうと真っ直ぐひたむきに努力したのだろう。  その為に長い長い時間、我慢をしなくてはならなくても。湊の事を想い続けて。  ……それはどれだけ孤独だった?どれだけ不安だった?  そのあいだ湊は、まだ子供だから一時的な感情に流されているだとか、学生だから卒業したら忘れるだろうとか逃げ道を用意して、そこに隠れ潜んでいただけだ。そんな自分のちゃちなプライドが、太樹の耐え続けた想いよりも大切なものには到底思えない──。  そもそも湊が逃げ道を用意したのは半分だけだ。湊の作った逃げ道は、太樹が大人になり会いに訪れた時その効果を失ったのに。  残りの半分は初めから太樹に心奪われていた。大の男が両目から大量の涙を流しながら大通りのゾンビの群れに突っ込んで行く位には。  湊でなければいけない太樹なりの理由があるのだろうが、それはきっと湊には分からない。  そして多分、理解しなければいけないものではないんだろう。 ──自分が認めさえすれば、本当は、とっくの昔に答えは出ていたはずじゃなかったのか。  そこまで考えて湊は全身の力を抜いた。理由としてはもう十分だ。自分を誤魔化し続ける意味がない。  そして太樹に体を預けるように寄りかかった。 「もう……やるよ全部。お前に」  湊の言葉に太樹の抱きしめる腕に力がこもった。 「湊さん……今、なんて?」  確かめるように太樹が聞き返す。 「俺を全部、水上にやるって言ったの」  なおも太樹は繰り返す。 「──本当?」 「本当だよ」 「もう絶対キャンセル効かないからな」  さらに念を押す太樹に湊は苦笑する。 「俺だって覚悟決めたんだ……返品なんか出来ないぞ」 「するワケないだろ!?やっと捕まえたんだよ?絶対、離さない絶対……ヤバイ、信じられない。すげえ嬉しい……湊さん湊さん湊さん湊さん………好きだよ。大好き久住先生──」

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