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第35話 静まれ心臓、荒ぶる恋心

 穂高……じゃなくて、土屋、って、ちゃんと呼べるかな。  いやいやいやいや、入社してから三年間、ずっと土屋って呼んでたじゃん。そんなにたくさん呼ぶ機会には恵まれなかったけど、でも土屋の認識だったじゃん。  ――穂高。  ――んー? 何? 腹減った?  ――穂高。  ――甘いもの食いたくなった?  ――ほ。  ――俺の名前呼ぶのそんなに楽しい? 「…………」  ダメだ。思い出したらダメなシーンだった。朝の電車の中だけど赤面が直らなくなってしまう。うちらの業界としてはとっても早い時間帯。でも、一般的サラリーマンにとっては通勤ラッシュの時間帯。赤面しているサラリーマンなんて俺くらいのもので、皆、ブルーマンデーのため少し憂鬱な横顔をしてる。きっとこの車内で、俺だけは、ブルーどころか、名前を呼びたくて仕方なくて、何度も連呼した時の会話を思い出し赤面してしまう、悶えもがくマンデーになっている。  ――祐真。  ぎゃああああああ!  って、叫びたい。  お返しとばかりの名前呼びの迫力にこの車内で溶けそう。  そのくらい、すごく甘い週末だった。ずっと一緒にいた。ずっとポーッとして、ほわーっとしてた。たかが名前を呼ぶだけのことでニヤけてしまう。そんな週末だった。  だってさ、なんか特別感がすごかったんだ。名前で呼ぶことがたまらなくドキドキしたし嬉しかった。  ほ、穂高とすごく近くになれた気がして。 「熱? それとも、別の理由?」 「!」 「……はよ」  電車を降りてすぐ、ぞろぞろと一緒に降りるサラリーマンの流れに乗っかったところで、頭をぽんって、大きな手が。 「お、はよ」  穂高だ。 「今日、夕方の時間少しずらせるか?」 「へ? あ、うん。ミーティング、四時からの」 「悪い。急遽、顧客んとこで打ち合わせが入ったんだ。ギリ五時だ。祐真は? 終業間際忙しいだろ?」  祐真、だって。 「ううん。忙しくないけど?」 「そうか? いつも終業間際に仕事を頼むとブリ子がすげぇイヤそうな顔してたぜ?」 「え? 穂高相手に?」  穂高だって。 「? あぁ、なんで俺にだとびっくりするんだよ」 「あー、いやー……あはは」  俺相手ならいつ何時だろうとも渋い表情だけれど、イケメンには特別好待遇だからさ。穂高なんて待遇を松竹梅にするなら松クラス。そんな松クラスがイヤそうな顔されることあるんだなぁっていう驚きと、終業間際のギョウカンってけっこう暇だからさ。  朝は急がしい。夕方までに進んだ仕事を朝一で一緒くたに束ねて業務進行プランと照らし合わせる作業があるから。けど、夕方なんてその進行度をさっと確認するかもなぁって程度だ。どうせ、朝、同じようにプランとの照らし合わせをするから。  だから、逆に暇なんだけど。 「ブリ子、イケメン好きだから」 「……」 「なんでそこで驚愕の表情するんだよ」 「え? だって、うちの営業一課の澤さんがすげぇ優遇されてるぜ?」 「澤さん?」  穂高が思うほどってことはきっと、ものすごくイケメンなのか。それこそ、一昨日一緒に見た、あんまだったーな映画のヒロインの相手役、去年の抱かれたい男第一位みたいに。 「禿げて、お世辞だろうとも、カッコいいです、とは絶対に言えない、言ってたら完全に嘘だってバレる澤先輩」 「っぶ」 「笑うなよ」  想像してたモデル像が今、ガラガラと音を立てて崩れちゃったじゃん。 「でもさ、ってことは、ブリ子のあのしっぶい態度って俺にだけってことじゃんか!」 「あー、まぁ」 「まぁじゃないしっ!」 「いいじゃん。俺はそのほうがいいけど? 男女が密室で八時間一緒って、何か間違えがあったらどうすんだよ。祐真がその気なくたって、向こうが」 「ぎゃああああ、怖い想像すんなっ」  穂高がまた、祐真って言った。 「だから、いいじゃん」 「……穂高」  そして、俺が名前を呼ぶ度に、穂高の表情が綻ぶ。 「どうする? ブリ子がパソ画面の向こうから祐真にウインクしてきたら」 「んぎゃああああ! バカ! こえぇよ!」 「あははは」  ほら、クールでイケメンで営業一課期待の星、エース土屋とは思えない、頬を染めて、たまらなく嬉しそうに笑ってる。 「それじゃ、また、今日のミーティング五時半とかでいいか? 祐真」 「あ、うん」  そっか。もう会社着いちゃったんだ。 「仕事、頑張って、穂高」 「あぁ」  あっという間。穂高と歩く駅から会社までの五分は瞬きみたいにあっという間だった。最初から。 「あ、なぁ、祐真」 「?」 「そのあと、夕飯、一緒に食おう」 「……」 「それ目標に頑張るわ」  最初から、穂高にドキドキしてたっけ。ほら、いまだって、このあとブリ子が来るまでの一時間でこの赤面を直しておかないと。 「それじゃあな」  静まれ心臓。そう、胸のうちで呟いた。 「須田君、三番に外線」 「あ、はい。……お待たせしました。業務管理課、須田です」 『お疲れ』  びっくりした。だって、電話、穂高からだったから。 「お、お、お疲れ様です」  びっくりしすぎて、声がひっくり返って、目の前のブリ子がとっても怪訝な顔になっちゃったじゃん。っていうか、話の内容聞かれそうで、何を話すのも緊張しそう。 『っぷ、焦ってる』  焦るよ。なんだよ。もう。でも、穂高の電話の向こうから電車のアナウンスらしきものが聞こえた。まだ出先なんだ。もう、五時。そう時計を見たところで、やっぱり打ち合わせが長引いてミーティングをあと三十分遅らせて欲しいって、言われた。 『大丈夫か?』 「も、もちろん大丈夫です。はい。そしたら、はい……六時で。了解です」  だから、静まれ心臓。目の前でゼウスばりの厳しい目付きで現状を見つめるブリ子がいるんだから。 『それじゃあ、六時で。悪いな。あ、あと、晩飯、美味そうな店を澤先輩が教えてくれた。今夜はそこな。電車着たから切る。またあとで、佑真』 「!」  ホント静まれ心臓。最後の名前呼びに必殺技を食らった俺はバックバクになった心臓のせいで、変な苦笑いをブリ子に向けてしまって。  ものすごーく気まずい空気に耐えなければいけなくなった。  それから一時間半後。 「もおおお! ブリ子に怪訝な顔されちゃったじゃんか!」  ミーティングルームに入ってきた穂高への第一声がそれで、穂高はそんな俺に少しだけびっくりして、クセのある俺の髪に触れながら楽しそうに笑っていた。

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