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第48話 千の溜め息

 考えたいことはいっぱいある。穂高のことも、一樹の告白も、色々考えたいのに。 「これで、送信……っと。あ! やば、総務と営業一課にこれ、渡さないと……じゃん」  毎月配ってる業務延滞率の表。  ハンコをもらわないといけないから、部署をそれぞれ回らないといけないんだけど。その課の名前にふと手が止まった。 「……」  穂高のいる営業一課。 「って、考え事してる暇ないんだってば!」  仕事の量は格段に増えた。増えた分だけ、効率よく動かないと回せない。効率化のためには仕事の流れを先読みしていないと。 「……頑張れ、俺」  とにかく自分の仕事をちゃんとやらないと。あの課長がどこでどう目を光らせてるかわからないんだから。  気を付き締めて部屋の外に出て、まずは気がかりな営業一課へと向かう。  今朝も思ったけれど、会社全体の雰囲気がガラリと変わっている。どことなく皆がそわそわしている感じはしていたけれど。  今までは触らぬ神扱いだったギョウカンのブリ子ですら厳しく見られているくらいだから、こうもなる、よな。あの人事異動は、皆の、明日は我が身っていう危機感を植えつけるには充分だった。  けど、営業一課は社内の比じゃなかった。  数字でだけしか評価されない仕事。自分の出世のために使われるんだっていう気持ちが少しずつ、目がギラつかせて、空気を鋭く尖らせていく。  入った瞬間、息苦しさに眩暈がしそうだった。 「あ、あの、すみません」 「……はい。何か」  穂高はいなかった。外回りとかなのかな。わからない。昨日、あのあと連絡はなかったから。 「この書類のハンコを」 「あ、はい」  俺も何を言えばいいのか思いつかなくて、連絡できなかった。 「ありがとうございます」 「土屋さん、どーすんだろー」 「無理でしょ。あの課長、マジで無理」  そんな会話が耳に入ってきた。何をどうするのかはわからない。でも、ぐるりともう一度見渡してみると、穂高だけでなく課長もいないっぽくて、急に胸騒ぎがしてくる。ふたりして何か話し合ってるとか? 無理っていうのは、なんなんだろう。もしかして――。 「……」  もしかして、辞めるなんてこと。  そこで考えを止めるためにグッと唾を飲み込んだ。  総務課。それとセット扱いの人事課も。一番社内でのほほんとしている雰囲気の部署だったんだけど。あの美人岸さんですら、何か不穏な空気を感じたのか、いつもみたいにクルクルと巻いてパーティーみたいにしていた髪をキリリと一つに束ねてる。 「ご苦労さん。ギョウカンひとりになったんだってぇ?」  書類に目を通しながらの世間話。営業一課のあの課長だったら絶対にしないだろうと思うと、すごく大事な息抜きに感じられた。  総務課の課長はしゃべるのが好きだから、いつも待っている間は話し相手をしないといけなくて、困ったなぁなんて思ってたのに。ブリ子が嫌ってたっけ。おじさんっていうのも大前提としてあったと思うけれど「合わない」ってよく言っていた。 「あ、はい」  そりゃ大変だ、と溜め息混じりに総務課長がハンコを押してくれる。おっとりした感じの課長さんで、女性が多い職場だからなのか、柔らかくて話やすい人だ。ちょっと噂話が好きっぽいけど、でも女性が多いと飛び交う会話に噂話もある程度入ってるだろう。 「まぁ、あの人、横柄だったもんねぇ」 「……」 「けっこう反感持ってた人多いからさ。それに、君がギョウカンに異動になってから仕事が早くなったって、皆言ってるよー。あの人、何か一つ頼むにも必ず小言をつけてくるからさ。君になってからスムーズになったって、皆喜んでるんだ」  そう、なんだ。そっか。それもあって、営業一課のあの課長にギョウカンが目を付けられたのかな。  ほら、その仕事をやったことがない人にはそれがどのくらい時間がかかるのか、どのくらいの労力が必要なのかちょっとわかりにくいから、文句を言いたくても言えなかったりする。早く欲しいと言っても、そんなに早くはできないものなんだと言われてしまったら、もう何も言えないだろ?  だから、ブリ子の仕事に不満があっても、誰も何も言えなかった。言えば余計に仕事を遅らせるような人だからさ。 「大変だろうけど」 「ありがとうございます。失礼します」  手を振る噂好きな総務課長にお辞儀をした時だった。 「っと、わっ」 「うわぁ」  部屋を出ようとお辞儀をしたところで、部屋に入ろうとした人を、お尻でどーんと突き飛ばしてしまった。 「す、すみませっ……って、福田」 「よ」  福田も総務に用事があるようでクリアファイルの中にメモ紙を持って、ニコッと笑った。けっこう能天気で、納期ギリギリの仕事が舞い込んで来ても鼻歌混じり動作確認を始めたりする福田の能天気がとてもありがたくて、ホッとする。 「な、な、須田」 「?」 「あの人、なんか、別人みたいなんだけどっ!」  噂話が大好きな総務の方々に聞かれないように、腕を引っ張られて、廊下の端に連れて行かれた。 「え? あ、ブリ……子?」 「そう! あの人さ、すげぇ人見知りで、そんで性格最悪だな」 「……」 「よくあんな人の下で働けたな」  いや、俺には大概オラオラモードだったけど。でも、あの人は話すのが得意じゃないんだと思う。きっと今も何をどうしたらいいのかわからなくて仏頂面をしている。元々人相良くないのに、仏頂面になると本当にひどくてさ。般若が拗ねて照れて、困った顔をしたって、日頃、あまりいい印象のない地獄のギョウカンブリ子の手助けしてあげようなんて物好きはないだろ? 「大変?」 「すっげぇ大変! しっかもギョウカンひとりで仕切ってたって、マジかよ? って疑いたくなるレベルで仕事できないし。メモ取らないし。そのくせわからなくなると質問ひとつもできないし」 「あー、あはは」  困った般若顔のブリ子がいとも簡単に思い浮かんでしまった。 「最悪だよ。マジで」 「うん……」  本当に最悪だったんだ。意地悪だし、ろくに教えてくれないくせにちょっとでもミスをすると、部屋に響き渡るような声を出して驚かせる。そんで、人のパソコンの中身は必ずチェックしてるんだ。昼飯を食べ終わってデスクに戻った時、ミスを指摘したメモ書きを並べられたこともあったっけ。そのくせ、人が自分のパソコンの中を覗きこんだってわかると、ものすごおおおおおおくイヤそうな顔になるわけだ。営業一課課長さんが自分のパソコンを覗き見したって怒り心頭だったもん。  すっごい強烈だったし、毎日気が重かったし、毎日しんどかった。溜め息なんてさ、胸のうちで何回零れたかわかんないよ。そんな溜め息をもしも表に出したら、パソコンの液晶画面の脇からじっと睨みつけられるだろうから、胸のうちでこっそりと。たぶんその回数は千を越える。  千の溜め息ってすごくない? でもそのレベルで大変だった。  ホント、最悪だった。 「……う……ん」  そんな最悪な人の下で数ヶ月働いてきたんだよ。俺は。すっごい粗塩対応をされながらも、意地悪にもめげず頑張ってきた。  なんで頑張れと思う? ねぇ、穂高。 「須田?」  なんでブリ子と耐久八時間を毎日こなせたんだと思う? 「おーい、須田ぁ?」  穂高がいたからじゃん。穂高と、ゲーム作りたいから、頑張れたんじゃん。穂高が隣でたくさん応援してくれたから続けられたんじゃん。 「ごめん! ちょっと、俺、頑張ってくる!」 「は? はい?」  それに比べたら、たぶん、きっとなぁんにもしんどくないと、そう、思わない?  なぁ、穂高。

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