56 / 112
第56話 掛け替えの無い存在。
「文月ー!起きてー!」
咲良の声で、文月は寝惚け眼を薄っすらと開いた。朝に滅法弱い文月は、思考が働いていない状態で身体を起こすと、困惑した表情を浮かべている咲良と目が合った。
「ねぇ…何で泣いてるの?」
『…え?』
(泣いてる?誰が?俺が?)
文月は指先を頬に這わし、自身の目縁が濡れている事に気が付いた。
(昨夜見た夢のせいか?水無月が俺の元から去って行ってしまう…そんな夢だった。)
思い出しただけで背中に冷や汗が伝う。
「文月。大丈夫?」
『あー…余り覚えていないけど、怖い夢を見てた気がする。』
「ふふっ。何それ、子どもみたい。」
『そうだな…』
「朝食出来たよ。食べよ!」
『料理作ったのか?お前が?』
「ホント失礼な奴ね。私だって少しぐらいは作れる様になったわよ。先に顔洗って来て。」
『はいはい。』
文月は苦笑しながら洗面所に向かい、洗顔と髭剃りを済ませると、席に着いた。卓上には、焦げ目の付いたトーストが皿の上に乗せられていた。
『何も無いよりは、マシだな…頂きます。』
トーストに齧り付くと、咲良がキッチンから戻って来た。
「じゃーん。サラダと目玉焼き!」
『お前、それ料理って言えない…って、おい!』
「え?何?」
咲良が持って来たサラダに、今夜水無月の為に作ろうと思っていたパスタの材料であるベーコンとトマトが添えられていた。
『それ…今夜の料理に使うつもりだったのに。』
ガックリと肩を落とす文月に、咲良はにやりと笑みを浮かべる。
「ねえ…今夜、誰か来るの?」
『お前には関係無い。』
「もしかして…恋人に手料理を振る舞うつもりだったとか?」
(恋人…恋人にはなれないって言われた。)
『違う。アイツは恋人じゃない。』
「ふーん、じゃあ…友達?』
(これからセフレになるのに、友達と言えるのか?恋人でも無ければ只の友達とも言えない。
どの言葉にも当て嵌まらない。水無月と俺の関係って、一体何なんだ?)
「どうしたの?」
『何が?』
「眉間に皺が寄ってるよ。まさか、言えない様な相手?不倫とか?やだー!」
『は?違うし!』
「えー。じゃあ、何でそんな難しい顔してるのよ。」
『恋人じゃないし、友達とも言えるのか分からない。』
「はぁ?何それ?どんな関係よ?」
『何それ?だよな。どんな関係かって聞かれたら俺には答えようが無いけど…』
「けど…?」
『アイツが俺にとって掛け替えの無い大切な存在って事だけは言えるな。』
ともだちにシェアしよう!