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第70話 30秒間。
買い物を終え、マンションに帰って来た文月は、直ぐに部屋の片づけを始めた。問題が何一つ解決していない状況だと知りつつも、水無月と一緒の時間を過ごせる機会が再び訪れた事に歓喜する自分がいた。
思いの外 掃除に手間取り、気が付けば夕方。約束の時間が刻一刻と迫る中、文月は夕食作りに勤しんだ。先日、一緒に食べられなかったベーコンとトマトのパスタを作るつもりでいたが、水無月があの日の出来事を思い出してしまうかも知れないと危惧し、急遽メニューを変更した。作り終えるまでにもう少しというところで、玄関のチャイム音を耳にし、文月は逸る気持ちを抑え玄関口へと向かう。扉の前に立ち、深呼吸してからドアノブに手を掛けた。
『いらっしゃい。どうぞ。』
「お邪魔します。」
『もう少しで作り終えるから、座って待ってて。』
「俺も何か手伝おうか?」
『じゃあグラスをっ…』
文月が振り向くと、自身の口元と水無月の額が後数十センチで触れてしまいそうな程近い距離に在った。文月の心拍数が一気に高まる。水無月と目線が合わさった数秒の間が、とても長く感じられた。
「グラス、運べば良いのか?」
『ああ…うん。』
(水無月に触れたい…)
強い衝動が沸き起こり、気付けば脇をすり抜けて行こうとする彼の腕を掴んでいた。
「其処に置いてあるグラスじゃなかった?」
『違う。』
「じゃあ、どれ?」
『違う。いや…そのグラスで良いんだけど、そうじゃなくて。』
文月の要領を得ない言葉に水無月は困惑する。
「え?どういう事?」
『30秒間だけ…』
「30秒?」
『うん。30秒数える間だけ、お前を抱き締めても良いか?』
「……」
気恥ずかしいだけなのか、それとも嫌がっているのか、読み取り難い表情を浮かべ黙り込む水無月を文月は自分の元へと抱き寄せた。
『水無月、聞こえる?』
「何が…?」
『心臓の音。お前と俺、同じ速さだ。』
文月の背に腕を回し瞼を閉じると、トクットクットクットクッ…互いの鼓動が胸に響く。
「うん…聞こえる。」
1・2・3 ……
今夜、これからの事について話し合わなければならない。セフレになれば今迄とは違う関係性が生まれる。いずれ、セフレを解消した時に、友人で居続ける事が出来るかも分からない。
だからこそ、変わってしまう前のこの僅かな時間が、2人にはとても大切なものに思えた…
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