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第96話 お礼。
残っていたワインが空になり、後片付けをしようとキッチンへと足を向けたが、恵にグラスを奪われ玄関口まで追いやられた。彼の強引さに苦笑しながらも、周は好意に素直に甘える事にした。
『恵さん、今日はありがとう。凄く楽しかったよ。』
「私も楽しかったです。次は朝まで飲み明かしましょう。」
『うん。是非!あ、知り合いの方と料理を作ってくれた方に、恵さんからお礼を伝えておいてくれるかな?料理とても美味しかった。ありがとうございますって。』
「…うん。伝えておきます。」
『じゃあ、おやすみなさい。』
「あ、待って。」
『えっ?あっ…』
あれ?距離が近い。そう思った時には恵の唇が自身の首筋に宛てがわれ、軽く吸われていた。
『あの…恵さん?』
「ふふっ。ちょっと悪戯が過ぎましたね。」
『悪戯?ああ…そっか。じゃあ、帰りますね。』
「ええ、気を付けて。」
玄関の扉を背に、周は逸る気持ちを抑えながらエレベーターへと向かう。一階に着くと足早にエントランスを抜けて待機していたタクシーに乗り込み、運転手にマンションの住所を告げた。
恵は周を乗せたタクシーが走り去って行くのをリビングの窓辺から見送ると、携帯電話を手に取り、室内をうろうろと歩き回り始める。
「周さんに言われたしなぁ…けどなぁ…」
ため息混じりに独り言ちていると、手の平に振動を感じ、携帯電話の画面に目を落とした。電話を掛けようか迷っていた相手からの着信に一瞬たじろいだが、恵は一呼吸置き平静を取り戻してから通話を押した。
「もしもし。」
『客は?まだ居るのか?』
「いや、今さっき帰ったところ。」
『そうか…飯は食ったか?』
「うん…」
『なぁ、その客って…』
いつもは明け透けに物を言う彼が言い淀んでいるなんて不自然に感じる。
「何?」
『…店のスタッフか?』
「違うけど、何でそんな事聞くんだ?」
『…何となくだ。』
「そう。あのさ…今日はありがとう。シェフにも宜しく伝えておいて。」
『……』
今度は黙り込んだ。やはりいつもと様子が違う。
「聞いてる?」
『珍しいな。』
「何が?」
『お前が俺に礼を言うなんて。』
「ああ…周さんにお礼伝えてって言われたから。」
『周さんねぇ…其奴に言われたから仕方無く礼を言ったって訳か。周って奴はお前の何なんだ?』
「…説明する必要が有る?」
『そうか…そうだな。俺に言う必要は無いな。』
「もう切るよ。」
『ああ…おやすみ。』
返事を返さずに通話を切ると、急に疲労感を覚え、携帯電話をソファーの上に放った。
「水無月さん気付くかな。気付いたら、どんな反応をするかな…」
恵は小さな声で呟くと、ワイングラスを片付け始めた。
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